めかかうな大人のおとぎ話

時代背景30年ほど前の少々大人のアクションラブコメディ小説です。

暗殺者-メシア-22 最終話

22


「あれから2年か…。月日の流れは早いな…。望も もう3年生、私も年取る筈よね…。」
落ち着きだけは、年令に伴なわない夢である。
夢は並木通りのスーパーを目指して歩いていた。
空を仰ぐと、真っ青な空に大きな固まりの雲が、呑気そうに顔を突き出している。
風は暑いながらも、軽やかに吹き抜けた。
穏やかな時間。
穏やか過ぎてちっとも進まない。
夢の瞳の奥の悲しい色を、時間は少しも色褪せさせてはくれないのだ。
二年の時は気が遠くなる程、気が変になるくらい長かった。
それなのに悲しい気持ちは薄れない…。
きっとそれは、あの人を待っているから…。
忘れようとしないから…。
分っている。
…でも夢はその名の通り夢みたいな女なのだ。夢を失くしては生きられない。
いつかきっと…。一生…化石になっても、その想いは消えないだろう。

 

 

溜め息まじりに雲を眺めていると…。不意にお腹が空いてくる。
入道雲を見て、食欲がそそられるのは夢だけだろうか。

どうも夢はあの雲を見ていると、どうしてもソフトクリームが食べたくなる癖がある。
発想が短絡的過ぎるのかもしれない。
しかし食べたいものは何と言われようが食べたい。
一人でソフトクリームを食べることには抵抗があるものの、夢は思い切って、例のケーキ屋の前のソフトクリームを買いに行った。
ケーキ屋へ向かう途中、夢はふと本屋の軒に吊り下がった広告に目を止めた。
「…え?」
足が止まる。
風に吹かれる広告を手で押さえて、もう一度、内容をよく見てみる。
そこには一冊の本の宣伝文句が描かれていた。
作者、吉良耕介。

題名『夢ちゃんと王子様』。
吉良耕介…?
夢ちゃん…⁈
嘘っ‼︎…まさかっ‼︎
夢は本屋に飛び込んだ。そして、急いで広告の本を捜す。
本は目につく場所に重なって並んでいた。
もろに「只今 売り出し中!」といった陳列のされ方だ。
童話らしい優しい表紙の絵。
紙の材質は わざと ざらっとしたもの使ってあって、とても素朴な感じだ。
夢はその本を一冊買って店を出た。
ついでにケーキ屋のソフトクリームも買い、イチョウの木の間のベンチに腰を降ろす。
真夏にこんな所で休憩する人の姿はなく、辺りは静かだった。
夢も少々暑さに閉口しながらも本を開く。
ソフトクリームを頬張ることも忘れない。
その童話は、夢という女の子がおもちゃの怪獣キラーと共に色々な冒険をして行く…という内容だった。
怪獣キラーは夢とだけ話すことが出来、大きくなったり小さくなったりして彼女を守る。 かなり少女趣味な話だった。

 

 

吉良さんじゃないか…。まさかね…。ものすごい偶然だけど、きっと違う…。
いくら何でも、こんなの吉良さんが書く話じゃないよ…。
夢はしょんぼり肩を落して呟いた。
本を閉じてもう一度、表紙を見てみる。
吉良耕介、やはり その名前には心が揺れる。
紛らわしい作家名が憎らしく思えて、夢はその名を睨みつけてやった。
…と、妙な事に気づく。
本の題名は『夢ちゃんと王子様』。
どうして"王子様"なのだろう? 夢は不思議に思った。
最後まで読んだ話の中に王子様など一度も出て来なかった。
「王子様が出て来ないなら『夢ちゃんと怪獣キラー』の方が、ぴったり来るのに…変なの。作者に投書してやろうかしら…。」
完全な八つ当りである。
(でも、もし本当に作者が吉良さんなのなら、すぐにでも会いに飛んで行くのに…。)
不意に込み上げてきた涙をごまかそうと夢はソフトクリームのコーンに嚙りついた。
甘さに混じって涙の味がする。
間接キスだな…。皮肉な吉良の声が、今にも聞こえ来そうな気がする。
この並木道にも、下宿にも公園にも、空にも空気にも…吉良の面影がいっぱい溢れていて、記憶の中の世界から出られない…。
いつもいつも周りは吉良で一杯なのに、話すことも触れることも出来ない。
まるでミラーハウスに迷い込んで、出口が見つからなくなっているみたいだ。
いつかきっと…。「それはいつ?」
いつかきっと…。「思いたくても思えなくなりそう…でも」
いつかきっと...。「諦めようとしても頭から離れない言葉」
(早く助けに来てよ、吉良さん…。 )
夢は涙を手早く拭って立ち上がった。
真っ昼間から感傷に浸ってはいられない。
「さ!買物、買物!」
自分を奮い立たせるために夢は声を出す。
こうやって精一杯、毎日毎日を過ごしていれば『いつかきっと』報われる日が来る。
夢は大きく空を見上げて、そして、歩き出そうとした。
「王子様ってのは、怪獣キラーのことなんだ。怪獣キラーは王子の仮の姿ってわけだ。題名を見りゃ、すぐ分かるオチだと思ったけど。超凡人にゃ無理だったか。」
「……。」
この声、聞き違える筈はない…。
確かにこの声は…でも…。
夢には、なかなか振り返る勇気が出なかった。
今まで何度も何度も繰り返していたことだったから…。
吉良の声がしたと思って振り返ると、誰もいない。
似た人を見かけては追いかけ、追いついては、がっかりする。
ここ2年の間、そんなことばかり繰り返して来た。
恐い…。また違っていたら…そう思うと恐くて振り向けない。
違った時のショックを考えると、どうしても勇気が出ない。
「ただ、あの話はまだ完結してねぇんだ。本物の夢ちゃんが、王子様を見つけようともしないで泣き暮らしてるから遠慮しちまってよぉ。…で、キラーは 今回 正体を現さなかった。」
幻聴にしては、話が長過ぎる。声もリアルだ。胸がドキドキ高なる。
夢は恐る恐る振り返った。

だが、誰もいない…。
背後には、今まで夢の座っていた空のベンチがあるだけだった。
(…またなの? また気のせいなの? もう…こんなの…やだ…。)
涙が溢れた。 一生懸命、ずっとずっと堪えていた想いが一度に溢れ出した。
終りのない胸の痛みには、もう絶えられない…!
夢はしゃくり返げながら顔を戻した。
「ほら、やっぱり泣いてんだろ。お前のせいだよ。キラーが王子になれなかったのは。俺に投書すんのは、筋違いってもんだ。」
目の前に吉良がいた。
相変らずのトボけた笑顔で立っている。
夢じゃないよね…。幻覚じゃないよね…。
夢は散々自分に念を押した後、吉良に勢いよく飛びついた。
「吉良さん…‼︎」
そこには、本物の温りがあった。
(本物だぁっ‼︎)
吉良の体をしっかり抱きしめる。
ニ年分、思い切り抱きついた。
「あの本のシリーズ第2段を頼まれてんだ。でも『生きてる童話』が傍にいねぇと、あんな少女少女した話、続きが思いつかなくてな。思い出のお前だけじゃパワー不足だ。童話作家やれって言ったのお前なんだから、責任取れ。」
吉良の言葉に夢が顔を上げる。
まだ夢見心地なせいか意味がよく分っていない。
吉良は、照れ隠しに怒ったように言った。
「俺の傍に居てくれっつってんだっ!」
(嘘…。吉良さんが…そんなことで言ってくれるなんて....。やっぱり…これ…夢…?)
そのまま夢はストップモーション状態に陥る。
吉良を見つめたまま、ぴくりとも動かない。
「…お前なぁ。なんか言うことあるだろ。そりゃ、あんまりにも愛想なさ過ぎだぜ…ったく。それとも何か? 文句でもあんのか。」
夢は固まりつつも首を横に振った。
そして泣きそうな声で小さく言う。
「こんなの…嘘みたいで…。夢じゃないかと思って…。声を出したら消えちゃいそうで…。め…目を瞑ったら…吉良さん…いなくなっちゃうんじゃないかと思って…。だから恐くて…。」
言っているうちに、どんどん夢の目に涙が溜まってくる。
吉良は、ちょっと笑って静かに言った。
「消えたりしねぇよ。」
「でも…。」
「じゃ、試してみろ。」
「え?」
「目を瞑ってみろよ。」
涙で一杯の瞳が揺れる。
「…うん 。」
夢はそっと目を閉じた。
瞳に溜まった涙が一雫、頬を伝っていく。
それは夢の純粋な想いのかけら、吉良を信じてずっと待っていた証だった。
吉良は、指先でその涙を優しく拭って、夢の唇を唇で包んだ。
そして、震える体をしっかり抱きしめる。
吉良も二年間、こんな日を夢に見ながら自分の手の汚れを落とす努力を続けて来た。
決して生優しい事ではなかった。
闇の住人が陽の当たる場所へ移行し、そして馴れるにはそれ相応の苦しみに絶える必要がある。
それでも吉良にそれを成させたのは、あの日の夢の涙と、夢そのものの存在だった。
吉良はゆっくり唇を離すと、夢を抱きしめたまま言った。
「あの時、言いかけたこと、今 思い出したぜ。」
「あの時…?」
「忘れちまったなら、もういいや。」
「よくない! ちゃんと覚えてるよ!」
(忘れるわけないじゃない…。そんな大切な言葉。それだけが私の味方だったんだから…。)
心の中で 夢が囁く。
吉良は腕の力を少し緩めて夢を見た。
「お前が好きだ。…最初っからな。長い間、待たせて悪かった。銃を捨てに行くのに時間食っちまってな…。もう俺は二度と銃は持たない。只の童話作家の吉良耕介だ。それで構わないか…?」
腕の中の夢が悪戯っぽく言う。
「ちょっと残念かもしれない。だって私、一回ピストルぶっ放してみたかったんだもん。」
それでは望に偉そうなことは言えない…。
「一番にあなたのこと、撃ち殺してやりたかったわ。こんないい女、二年も放ったらかしにしたんだから。」
かなり本気かもしれない…。吉良は背筋に寒いものを感じた。
「…私、何度も…思ったのよ。吉良さん、もう帰って来ないんじゃないかなって…。私が勝手に待ってるだけで、約束したわけじゃないし…。吉良さんは戻るつもりなんて全然ないのかもしれないって…。ずっと…不安だった…。」
吉良の腕が苦しいくらい夢を抱き寄せる。
「銃なんかなくても、オレはこの手でお前と望を守って行くからな。」
力強い言葉だった。
夢は息が止まるような幸せを体中に感じながら、自分も負けずに言った。
「私だって絶対、吉良さんと望のこと守ってあげるんだから!」
思わず吉良が苦笑する。
「ま、どっちかつうと、そっちの方が心強ぇかもな。」
「何? それ! どういう意味っ? なぁんか失礼な響き感じちゃうっ‼︎」

 

 

二人の普通(?)のやり取りからも、幸せがいっぱい溢れていた。
二人で一緒にいることが実感出来る、そして、それがずっと続いていくことを何の疑いもなく信じられる…それだけで二人はこの上なく幸せなのだった。
初夏の爽やかな風が二人を包んで流れて行く。
もしかしたらこの風が、二人にこの幸せな贈り物を運んで来てくれたのかもしれない。

 


THE END

 

 

 

 

拙い小説を最後まで読んで下さった皆さま、本当にありがとうございました!

当時は専業主婦だった私が育児の傍ら、都合の良い空想を 思う存分 書き連ねたお話であります。

その頃の私は「吉良耕介」は私の理想のヒーローだと信じておりました。

けれど実は「神崎夢」も「吉良耕介」も私の一部だったんですよね。(…当たり前ですが)

10数年前に夫を亡くし、社会に出て働くようになった今の私は、自分の中の「吉良耕介」の面を使うことが多くなったように思います。(決して私は殺し屋ではありません!)

私の心の中での立ち位置は変われど「心強い味方」「ヒーロー」という意味では、私にとって「吉良耕介」は変わらず大切な存在と言えるのかもしれません。

当時 書いた作品の中には様々な「ヒーロー」達が登場します。

(…作品数は言うほど多くないです)

引き続き、ここでご紹介出来ればと思っておりますので、これからも色んな「私」を楽しんでいただけると嬉しいです。

  • 小説自体は既に出来上がっているものなのですが、挿絵はその都度作っております。それが追い付かないことがしばしばあり…。気長にお付き合いいただけると幸いです。

 

「めかかうな大人のおとぎ話」作者より

 

暗殺者-メシア-21

21


工場地帯の出口に着いた頃には、もうすっかり辺りは朝に包まれていた。
数少ない木の上でスズメの声も聞こえる。
暗さに慣れた目に太陽が眩しい。
「ここまで来れば車も通る。しばらく歩けばタクシーだって捕まるだろ。後は、お前ら二人で行け。」
吉良が妙に明るい調子で言った。
「何、言ってるの? 吉良さん。」
夢と望は驚く。
「一緒に行って早く病院で診てもらわなくちゃ! 重傷なんだよ!」
「そうもいかねぇ。」
きっぱりした返事だった。
「俺はまだ戻って後始末しなくちゃならないし、それに鉛の玉が入った腹、普通の病院で診てもらうわけにいかねぇだろ。お前と同じ病院には行けないよ。心配すんな、こっちは適当にやる。だから、お前らは今日のことは全部忘れて下宿へ帰れ。」

吉良は目が合うのを避けるようにさっさと二人に背を向けた。
もう帰って来ないつもり…? 夢の胸に冷たい予感が走り抜ける。
「ついでにあなたのことも忘れろって言うの…?」
否定して欲しかった。
不安で恐くて仕方なくて、だから否定して欲しくて言った言葉だった。
しかし、吉良にとっては助け舟でしかなかったのかもしれない。
言い出しにくい言葉を夢が代りに口にしてくれた…そんなところだったのかもしれない。
吉良は短く言った。
「そうだな、そうしろ。」
あまりにも素っ気ない答え。
夢は喉元に熱い固まりが詰まって声も出せない。
「何でだよぉっ‼︎ なんでそんなこと言うんだよぉっ‼︎ お前、母ちゃん見捨てるつもりか? 母ちゃん一人にするつもりかよ? 母ちゃん泣いても平気なのかよぉ‼︎ ひでぇやっ‼︎ おやじ汚ねえぞっ‼︎」
吉良の腕を引っ張り回して望が叫ぶ。
しかし吉良はそんな望を疎ましそうな目で見て言った。
「俺は人を殺すのが仕事なんだ。だから いつまでも ちんたら一カ所に居るわけにいかねぇ。そんなことぐらい、ガキでも分るだろーが。」
「分かんないよっ‼︎」
今度は夢が声を上げる。
「そんな仕事、辞めちゃえばいいじゃないっ‼︎ 辞めようと思えばいつだって辞められるわっ! 吉良さんなら他にいくらでも出来ることあるよっ‼︎」
吉良は顔を背向けたまま何も答えない。
それでも夢は言った。
「そうよ…! 童話を書けばいいじゃない…! 吉良さん童話作家なんでしょ? だったら…」
「出任せに決ってんだろっ! そんな話! 何処までも めでたい女だなぁ、お前はっ‼︎」
口が荒くなる程に吉良の表情はどんどん辛そうになっていく。
「行くなよっ‼︎ おっちゃんっ‼︎ 一緒に帰ろーよっ‼︎ オレ寂しい…よ。そんなこと いっぺんも思ったことないけど…。オレ、おっちゃん居なくなったら寂しいよぉっ‼︎ だから一緒に帰ってくれよっ‼︎」
望の言葉が痛い。だからといって、ここで折れるわけにはいかない。
自分が傍にいても二人を不幸にするだけなのだから…。
吉良は大声で望を怒鳴りつけた。
「いい加減にしろっ‼︎ 望っ‼︎ いつまでも聞きわけのないこと言ってんじゃねえっ‼︎ 俺を本気で怒らせんなよ。俺は人殺しなんて何とも思ってない人間だ。気に入らなきゃ誰であろうと構わず殺す。お前の親父を殺したみたいにな…。」
(吉良さん…)
「嘘よっ‼︎ あなたは、あの人のこと気に入らないから殺したんじゃないっ‼︎ あの時、あなたがやらなければ私が…」
「黙れっ‼︎」
夢の言葉を吉良が激しく遮る。
夢は驚いて口を噤んだ。
こんな悲しい優しさは、見たことがないと思った。
自分が傷つくことで他人を守るなんて…悲し過ぎる。優し過ぎて悲しい…。
夢は痛々しい想いで吉良を見つめた。
不意に望が低く呟く。
「あんなの親父なんかじゃない…。オレには初めっから母ちゃんしかいないんだ…。」
そして吉良に向って言う。
「オレの父ちゃんは母ちゃんの好きなヤツなんだ!」
けなげな少年の瞳。
もちろん吉良は望の言いたいことが分らなかったわけではない。
胸が苦しいくらい熱くなった。このまま一緒にいられれば…そんな思いが胸を過ぎった。
…しかし。吉良は全てを黙殺して、冷たく言い放った。
「じゃあ母ちゃんに良い父ちゃん探してもらうんだな。」
そして笑顔を浮かべて言う。
「あんまりゆっくりもしてらんねぇから、もう行くわ。お前ら元気でな。」
軽く手を上げながら歩き出す。

 

 

(…もう、これっきり会えないの…? そんな…そんなの…嫌。そんなの絶対に嫌っ‼︎)
夢は吉良の背中に向けて、涙だらけの言葉を投げ掛けた。
「吉良さん、あの時、何て言い掛けたのっ⁈ 私のこと…何て言おうとしたのっ⁈ ちゃんと言ってっ‼︎ それが聞けたら…それだけ聞いたら…私、待ってるっ‼︎ 私いつまでだって吉良さんが帰って来てくれるの待ってるっ‼︎ ずっと待てるから、だから…吉良さんっ‼︎」
口候まで出かかった言葉を吉良は飲み込んだ。
待たせるわけになどいかない。何の証しもない約束は出来ない。
血塗れた手で、夢を受けとめることなど決してしてはならないのだ。
「何か言ったか?…忘れちまったな。」
吉良は振り向きもせずそう言うと、足早に立ち去って行った。
それ以上、吉良を引き止めることは出来なかった。
孤独な、しかし厳しい後ろ姿がそれをさせまいとしていた。
吉良の背中には彼の生きざまそのものが映し出されているのかもしれない。
「吉良さん…。」
夢は呟く。感謝と、そして押さえても押えても溢れ出す出す切ない想いを込めて…。
「…ありがとう。」

 

その後、吉良がどうやって"後始末"というものをやって退けたのかは分らないが、新聞にあの夜の事件が載ることはなかった。
下宿は平穏な日常に戻った。
沖田も、そして吉良も居なかった前のままの下宿に…そう、戻っただけだ。 何も変らない。
夢は早川の件で、実家の様子が気に掛かり、7年ぶりに実家に連絡を取った。
父と母は意外な程、夢たち親子を暖かく迎え入れてくれ、それ以来、夢は望を連れて実家に出入りするようになった。
しばらくして、母がこっそり夢に打ち明けた話に寄れば、富士見トキは、父の昔からの知り合いで、当然 夢の情報は全て両親の耳に入っていたらしい。
どうりで自然に望を受け入れてくれた筈だ。
父にしてやられたといった感じである。
もしかしたらトキが夢に声を掛けたのも、父の差し金だったのかもしれない。
まぁ今さら蒸し返しても仕方がないので、夢は敢えて突き止めようとはしなかった。
とにもかくにも両親と仲直り出来て良かった。
いつまでも 絶縁状態というのも気が重かったのだ。
こうして、実家に出入り自由になった夢なのだが、それでも実家に戻ってしまうことはしなかった。
それ以降も、ずっと下宿の賄いを続けている。
夢はこの仕事が気に入っていた。だから辞めるつもりなど、さらさらない。
…と、表向きはそうなっている。
しかし、決して理由はそれだけではない。
いや…と言うより、別の理由の方が大きいのだ…夢にとっては。

 

暗殺者ーメシアー22 最終話へ続く

暗殺者 − メシア – 20

20


早川は真正面から、向ってくる男に怯えながら、夢にナイフを突きつけていた。

 

 

「く、く、く、来るなっ!!」
じりじり後ろへ下がって行く。
吉良は脇腹を庇い、足を引き摺りながらも歩みを進めて行った。
早川を見据えたまま、銃に弾を込める。
そこへ、ようやく望が顔を出して吉良の上着の裾を握った。
「おっちゃん。正義は絶対勝つよな。」
カシャン。吉良は銃を元の形に修めて、事も無げに答える。
「正義なんてもん程いい加減なもんはねぇ。誰だって自分を正義だと信じてる。只、勝った方だけが正義を名乗るのを許されるってだけだ。正義は勝つんじゃなくて、勝った方が正義ってことになるのさ。いいか、望。戦いにそんないい加減な言い訳はいらねぇぞ。戦うなら自分の為に戦え。自分が守るものの為に戦うんだ。正義も悪も、そんなもん知ったこっちゃねぇや。誰に何と言われようが、自分が大切だと思うものを死に物狂いで戦って掴め。くだらねぇことに惑わされるんじゃねぇぞ。」

「…う、うん。」
完全に理解出来たわけでもないのだが、望は頷いた。

分らないなりに納得した…そんな感じだ。
「それ以上、近づいたら、夢を殺すぞっ!」
早川が叫ぶ。
「夢が死ぬ時は、お前はとうに死んでる。分ってんだろ?」
吉良は更に早川に近づいた。
早川の腕の中には夢がいる。
吉良が近づき続けると、早川は構えたナイフで発作的に夢の喉を切り裂いてしまうかもしれない。
それなのに夢は不思議と恐怖を感じていなかった。
吉良を信じていれば大丈夫。
根拠のない安心感が、体中をすっぽり包んでいる。
だから夢は只ひたすら黙って吉良を見つめていた。
その時、不意に早川の気が逸れた。
足元に落ちていた工具を踏んづけたのだ。
そんな何でもないことにでも恐怖で固まっている早川は、過剰に反応してしまった。
吉良がその隙をつく。
一瞬にして、早川の手は弾丸に貫かれ、ナイフは宙に舞い上がっていた。
「うあぁっ‼︎ ぐうぅっ…‼︎」
早川が撃たれた手を抱えて辺り中を転げ回る。物凄い形相だった。
思わず顔を背けたくなる光景だ。
夢は辛そうに俯いた。
やり切れない複雑な想いが胸を締めつける。
それを庇うように、吉良は夢の頭からそっとコートを被せた。
「…吉良さん。…望。」
夢が望を抱き締める。
「母ちゃん、オレ、吉良のおっちゃん助けたんだぜ。すっげぇだろぉ!」
無邪気な望の笑顔を見た途端、涙が込み上げて来て、夢は泣きながら微笑んで言った。
「…ん。うん、そうだね。ほんと、すごいよ。本物のヒーローだね。」
「うん! でも吉良のおっちゃんの方が、もっとすげぇや! 撃たれてもびびんねぇし、最後は全部やっつけちゃうんだから、カッコイイよっ‼︎ オレも大きくなったら、おっちゃんみたいになる! ピストルの練習一杯やって、おっちゃんみたいに…」
「勘違いすんな、望!」
吉良が厳しく望のはしゃぎを抑えた。
「俺はちっとも格好良くなんかねぇ。今日はたまたま運が良かっただけだ。いつ立場が逆転してもおかしかない。俺みたいな人間の死に様なんてなぁ、体中 蜂の巣にされて、泣き叫びながら死んでいく…そんなもんさ。一つ違えば今日だってそうなってた。俺が強く見えたのは只、事が上手く運んだ…それだけだ。本当に強い人間は銃なんて持ち歩かねぇ。そんなもんなくても、生きられるヤツが本当に強くて格好良い人間なんだ。忘れんな…。俺みたいになりてぇなんて二度と言うな。」
望はしゅんとなって黙った。
しかし、黙っていなかったのは夢である。
やたらとムキになって吉良に言い返し始める。
「違うわっ‼︎ 吉良さんは弱くなんかないっ‼︎ 勝手に自分で弱いって決めつけてるだけじゃないっ‼︎ だから、銃を持ってるって言い訳してるだけじゃないっ‼︎」
夢は吉良の腕を掴んで懸命に言った。
「吉良さんは、銃なんて持たなくても十分生きられる人ですっ‼︎ だって、さっき私なんかの為にあっさり銃を捨てちゃったじゃないっ‼︎ 本当に銃がないと駄目な人なら、そんなことしなかった筈よっ‼︎ 吉良さんは弱くないっ‼︎ 絶対、強くて優しい人だよっ‼︎」
夢の熱い一言一言が、吉良の胸に染みる。
氷のように冷たく凍りついていた心が、少しずつ少しずつ溶けていくようだ…。
不意に吉良の頭の中から絡みつくしがらみが消えた。そして、抑え込んでいた素直な想いが、思いもかけず口をついて出た。
「あの時、捕っていたのがお前じゃなかったら、俺は銃を捨てたりしなかった。お前だったから俺は銃を捨てられたんだ。俺は…俺は…お前のこと…」

突然、吉良は脇腹に激痛を覚えて、思わず蹲った。
「く…そうっ!」

吉良の脇腹を直撃したスパナが、足元で金属音を立てる。
もちろん早川の仕業だった。

望が早川に羽交締めにされる。
早川は3人の隙を窺っていたのだ。
「夢っ‼︎ こっち来いっ‼︎ お前は俺のもんだっ‼︎ 誰にも渡さんっ‼︎」
早川の左手には、さっきのナイフが戻っている。
それを望に突きつけて、早川は夢を呼んだ。
正気を失ったように変貌している早川。
夢はゾッとした。
本当に望が殺されてしまう。今の早川はそう感じさせるような空気に満ちていた。
「早く来るんだ夢! 子どもを殺すぞ!」
行かなければ殺される…!
夢は吸い寄せられるように早川の元へ向おうとした。
その腕を吉良ががっちり掴む。
「行くな! あいつ正気じゃない。行けば、お前も殺られるかもしれねぇ。」
「でも、望が…!」
「早川っ‼︎」
吉良が唐突に早川に呼び掛けた。
「お前、本気で望を殺す気かっ?」
吉良が問う。
何を言うつもりなのだ…。
「やめとけ、後悔するぞ…。そいつはお前の…」
「やめてっ‼︎」
溜まりかねて夢が叫ぶ。そして夢は不安気に吉良を見上げた。
吉良の胸を押さえる手の指先が震えている。
「望には、知られたくないの…。あんな人が父親だなんて…。だから、お願い、やめて…!」
出来る限り押し殺した声に夢の悲痛な想いが溢れていた。
吉良は黙って夢の震える手を強く握った。
そうしておいて、何を考えているのか分からない表情の顔を上げる。
「望はお前の息子だ。」
吉良は言った。
残酷な告白をいとも簡単にやって退けた。
「吉良さん!」
夢が顔を伏せる。 …どうしていいか分らない。
早川との過ちに対する後悔が全身に渦巻いた。
でも、それを後悔すれば望を否定することになる。
後悔したくても出来ない。後悔したくなくてもそうなってしまう。
夢は、どうすることも出来ずに、ただ俯いていた。
「…ほ…本当なのか…? 母ちゃん…。こいつが…オレの…親父って…」
聞かれたくない問いが夢の背中を打つ。
辛い。 …しかし、もう逃げるわけにもいかない。
事実を答えてやることが、望を一人前だと認めることなるのかもしれない。
もしかしたら吉良も同じことを考えたのだろうか…。
「望、聞いて…。母ちゃんは…」
夢が言い掛けた時、いきなり早川が笑い声を上げた。
「バカバカしい。そんな作り話を俺が信じるとでも思ってるのか? そう言えば、俺がこのガキを殺さないとでも思ったか。 …まあいい。そういうことにして一緒に育ててやってもいいから早くこっちへ来い。どうせ家を出てる間ろくでもない生活をしてたから、父親が誰かも分らんのだろう。だから俺が父親と言うことにしておきたい…そうだろう? 寛大に受け止めてやるから早く来い!」
頭上に雷が落ちて来たのかと思った。
夢はそのくらいのショックを受けた。
…信じられない。…許せない。この男だけは絶対許さない!
夢はゆっくり振り返って、意外なほど静かに言った。

「…私、犬や猫じゃないのよ。父親が分らないってどういうこと…? 私を何だと思ってるの?…あなたは。私が…望を生んだのは…あなたの子どもだったからよ。憎んでも憎み切れない男だった。 …でも…でも、あなたの子どもじゃなかったら、私…きっと…。それなのに…。私、ずっと待ってた…。あなたを憎みながら、それでもいつかあなたが私を捜し出して迎えに来てくれるんじゃないかって…バカみたいに待ってた…。その時は、きっとあなたを許してあげるって…そんな夢みたいなこと…考えてた。でも、あなたは違ったっ! あなたは…私が心の奥で…信じてたような人じゃなかった‼︎ 平気で私を裏切った…あの時のあなたが本物のあなただった‼︎ 許せないよ…私…。望までバカにするようなことを言った…あなたを…絶対、許せない。」
夢は真っ直ぐに早川に向って進んで行った。
光も透さないような悲しい瞳。
吉良でさえ止めるのをためらう迷いのない足取り。
その心は完全に、悲しみで閉ざされてしまっている。
「ゆ…夢…。」
呼び寄せたはずの早川が、怯んで身を引く。
夢は早川の前で足を止めると、望に向けられたナイフを無雑作に掴んだ。

 

 

「ひ…ぇ…っ…」
早川が声を上げる。
夢はナイフの刃の部分を思い切り鷲掴みにしている。
手の隙間から真っ赤な血がにじみ出す。
早川は、恐ろしくなってナイフの柄を離した。
自分に勝てない筈のない相手にすっかり飲まれてしまっている。
夢は早川から望を引き剥がすと、ナイフを持ち直した。
柄の部分をしっかり握って目を上げる。 暗い瞳には、悲しい涙が光っていた。
憎しみではなく、悲しみとやるせなさを湛えた涙だった。
夢の手のナイフが一旦退かれる。
そして、それを突き出しながら夢は一気に早川にぶつかって行く。
早川との決着を自分の手で着けるつもりだった。
…だが。
ナイフが早川に到達するより、一瞬早く、早川の動きは止まっていた。
そのままゆっくり仰向けに倒れて行く。
夢はナイフを握りしめ、その様子を茫然と見送った。
「ほ…本当…だったのか…?」
中途半端な最後の言葉を残して、早川が事切れる。
額についた弾丸の跡からは、赤黒い染みが広がっていった。

 

 

嘘のように呆気なかった。
こんなに簡単に人が死んでしまうなんて…。
夢も望も初めて目の当りにした人の死をなかなか現実のものとして受け入れられずにいた。
「吉良さん…何故? どうして、あなたが…早川さんを…」
まだ ぼんやりとした表情で夢が訊く。
「別に、理由なんかねぇ。しいて言やぁ殺し屋だから…かな。」
銃を納めながら吉良はあっさり言った。
「そんなことより、早くここから出るぞ。明るくなると人目についちまう。」
夢の手から握ったままのナイフを取り上げて、吉良はさっさと出口へ向かう。
夢と望も慌てて後に続いた。
工場の重い扉の外は、もう既に薄明るかった。
昨夜は見えなかった建物の輪郭が、淡い紫色になって浮かんでいる。
夜明けの透明な空気に悪い魔法が解けていく。
夜は終ったのだ。
廃工場を後にしながら吉良は一人呟いた。
「それにしても沖田のやつ…。何処に行っちまったんだ…? あの足で逃げるなんて…あいつ本気で根性あるなぁ。」

 

暗殺者ーメシアー21 へ続く

 

暗殺者 − メシア – 19

19

 

夢の言葉を聞いて顔を輝かせたのは、もちろん早川だった。
「そうかぁ〜決心したかぁ! そりゃそうだな。元々そうなることに決ってたんだから。僕と君との結婚は昔から決ってたんだ。なるようになっただけだからな。まぁ良かった良かった。」
すっかり浮かれている。まるで欲しいものを手に入れた子どものようだ。
たぶん飽きるのも同様、子どものように早いのだろう…。
そんな早川の脇で、沖田は面白くない顔をしていた。
吉良を殺す前に話が済んでしまうのは予想外。
このまま 吉良を生かしておくなんて、とんでもない話だ。
少し考えた後、沖田は歪な笑みを浮かべて言った。
「早川さん。口約束で安心しちゃっていいんですか? 僕なら不安だなぁ。だって夢さん、吉良さんのことを誰よりも愛してるんですよ。だから、嫌な結婚話でも受けたわけでしょ? 大切な吉良さんの為に。つまり夢さんの心はあなたには全くないってことですよ。」
早川の顔が曇る。
「…それはそうだが。…一体どうすればいいんだ? 吉良を殺すか?」
「それじゃあ駄目でしょう。そんなことしたら、夢さんは死んでもあなたの言うことなんか聞かない。だから証拠をもらってはどうです? あなたを一生愛する…いや、忠誠を誓うっていう証拠をね。」
沖田が何を言いたいのか、夢にはさっぱり分からなかった。
(ここで婚因届けにでもサインでもさせようっていうのかしら…?)
そんなことより今は吉良のことの方が気に掛かる。
どんどん吉良の体から、生気がなくなってきているように見える。
脇腹の傷口から流れる血が足を伝って落ち、コンクリートの地面に血溜まりを作っている。
顔色も悪い。
早く病院に連れて行かなければ、本当に吉良は死んでしまう…!
その時、沖田がやっと具体的な話をした。
「この場で夢さんに、夫にしか見せないような姿になって貰うっていうのはどうでしょう? 僕達証人の前で目に見える形の忠誠を誓って貰うんです。その姿をビデオにでも撮っておけば、かなり「使える」証拠になりますよ。どうです?」

証拠ビデオの収集が沖田の常套手段なのだろうか。

沖田は手慣れた様子で上着の内ポケットから、コンパクトビデオカメラを取り出して見せた。
突拍子もない提案に夢は言葉を失った。
結局、沖田は何がなんでも吉良を殺す気なのだ。
だから無理難題をわざと夢に突きつけ、そして、吉良をとことん苦しめて最後に殺す。
沖田は只、吉良の死ぬまでの苦しむ姿を楽もうとしているだけだ。
それが分かっていても、夢には対抗する術がなかった。
「この野郎…! お前…やっぱり…この間のこと だいぶ根に持ってやがんな…! ふざけやがって…!お前は俺を殺してぇだけなんだろが! だったら…余計なことばっかりしてねぇで早く殺れ‼︎ ちんたら揺らしたりしなけりゃ、もちっと まともに頭なり、心臓なり狙えんだろっ‼︎ 早く殺せっ‼︎ 夢に絡んでんじゃねぇっ‼︎」
苦しそうに肩で息をしながら吉良が叫んだ。
それを沖田はニヤニヤ笑って受け流す。
「嫌ですね。これからが面白くなるっていうのに。僕も目の保養をしたいですしね。…それに放っておいても、あんたは もうすぐ死ぬ。別にとどめを刺す必要もないでしょう。」
「だったら…!」
言いかける吉良を遮って、沖田は夢に向って言った。
「だったら…。どうせ死ぬんだったらって、夢さん、吉良さんのこと見捨てられますぅ? 出来ませんよね。とどめを刺されていなければ助かる可能性はあるわけですから…。早くヌードショーを始めちゃえば、吉良さんの助かる可能性が増えるんですよ、夢さん。」
沖田の話を聞いていると、それが正論に思えてきてしまう。
それしかないような気がしてくる。
素直に沖田の言いなりになりそうな夢を、慌てて吉良が止めた。
「アホか、お前はっ‼︎ お前が言うこと聞いたからって、こいつは俺を生かしちゃおかねぇ! 見え透いたやり方だろがっ‼︎ お前は、いいように使われるだけなんだっ‼︎」
(そうかもしれない…でも…)
「夢さん。どうしますか? 自分可愛さに吉良さんの命あっさり諦めますか? それとも僅かでも可能性に賭けますか?」

「私は…」
「夢。迷うことはない。君が言うことを聞くなら、僕が責任を持って吉良くんを助けよう。」
早川が調子のいいことを言う。至って怪しいものである。
「だから、夢…」
夢の上着に手を掛ける早川を、夢は勢い良く払い退けた。
そして、吉良を真っ直ぐに見つめた。
吉良を想う気持ちで瞳が熱く揺れている。
もう迷わない。 決意を固めた目だった。
「…そのくらい自分で出来るわ。」
きっぱり言って、夢は、上着を脱ぎ捨てた。

 

 

沖田が黒服の男の一人にビデオカメラを手渡す。
「撮影スタート! 顔と全身がしっかり映るアングルでヨロシクね!」

黒服の男は、戸惑いながらもビデオカメラを作動させ、沖田の指示通り動画撮影を始める。
「夢っ‼︎ やめろっ‼︎ お前、正気かっ⁈ そんなことしてみろ! お前は そいつらに一生縛られるどころか食い物にされちまうぞっ‼︎ そんなことされて俺が喜ぶとでも思ってんのかっ⁈ 俺は…俺は…そんな安い女なんて 絶対 お断りだっ‼︎ おい!夢!聞いてんのかっ⁈」
吉良が喚き散らす。
それでも夢は静かな目を向けて言った。
「あなたの命は安くなんてないわ。私にとって…すごく大切なものだもの。だからこれは、全然安くない。」
「へ理屈言うなっ‼︎」
何を言っても無駄だった。夢の決心は固い。
夢は目を閉じて、ブラウスのボタンに手を掛けた。
手が震えて上手く指先が動かながった。
それでも1つめ、2つめ…ボタンは確実に外れていく。
胸元がすうすうして何だか心細い気分になる。
目を閉じていても、目の前のカメラや周りの視線が肌に突き刺さる。
望がこの場にいないことを祈りながら、夢は一気にブラウスを脱いだ。
ブラウスが血で肩の傷口に張りついて、それを剥がすと痛かった。
でも大した痛みには感じない。たぶん、そんな余裕がないからだ。
夢は更に固く目を閉じて祈る。
(お願い…神様…。私、我慢します。…だから…だから吉良さんの命だけは助けて…! お願い…‼︎)
「やめろっ‼︎ 夢っ‼︎ 夢〜っ‼︎」
その時、吉良の体がガクンと沈んだ。

クレーンが勝手にどんどん下がっていく。
夢に気を取られていた男達は一様に驚いた。 何事かと騒ぎ始める。
騒ぎの合い間、ふと吉良の目に思いがけない姿が飛び込んで来た。
ドラム缶の影に隠れて、望が手を振っているのだ。
(あいつ…! 逃げなかったのか…!)
その通り。望は逃げ出さなかった。
自分を助ける為に一人で乗り込んで来た吉良と、それから、母を見殺しになど出来ない。

そう思って、自分に出来ることを探しながら身を潜めていた。
子ども一人の力では、武器を持った大人に敵う筈がない。
まず望は吉良を自由に動けるようにする方法を考えた。
そして、目をつけたのがクレーンのスイッチ。
これを下げれば何とかなる。
大人の目を盗んで、少しずつ望はスイッチに近づいて行った。
見つかってしまったら元も子もない。慎重にゆっくりと進んだ。
そうして時間を掛けて、今やっと事を成し遂げた…というわけである。
吉良は、下がりながら伸びて行くクレーンのワイヤーを利用して、体を振り子のように大きく揺らし始めた。
その揺れが一層大きくなった瞬間、吉良の体が後方のドラム缶の影へと消えた。
「早くもう一度クレーンを吊り上げろっ‼︎」
沖田の声が飛ぶ。
動転していた男達はその声で一斉に動き出した。
沖田も銃を片手に吉良の消えた場所へ向う。
一方、ドラム缶の影へ身を潜めた吉良は、望の手を貸りて、手首のチェーンを外そうとしていた。
ロープで縛られていなかったのが幸いだった。
チェーンではロープや紐のように、しっかり結び目を絞めることが出来ない。
しかも、吉良の重みで少し緩んでいたチェーンは、望の力でも容易く解けた。
「礼はいらねえよ、おっちゃん!
望が言う。
「言わねーよ。逃げろっつっただろ! …ったく、このガキはっ! お前ら親子は人の言うこと聞かねぇとこなんか、そっくりだな! 死んじまっても責任持てねぇぞ! アホがっ!」
言葉とは裏腹に、吉良の目は包み込むように温かだった。
ドラム缶の隙間から外の様子を伺いつつ、吉良は自分のタンクトップを引き割いて脇腹に巻きつけた。
きつく縛った後、顔を歪める。
相当、辛そうだ。
望が心配して吉良の顔を覗き込む。
「大丈夫か? 痛いのか?」
吉良は少し笑って言った。
「腹に穴が開いてんだぞ。そりゃ誰だって痛いぜ。でも、ま、心配すんな。母ちゃん、助けるまでは持たせる。 死にゃあしないよ。」
「何でだ?」
「ん?」

「何で、おっちゃん、そこまでするんだ? 自分が死にそうなのに何で母ちゃん助けようとするんだ? 何で逃げないんだ? 恐くないのか?」
望の大まじめな顔。
吉良は穏やかに答える。
「お前は何でさっき逃げなかった?…たぶん、それと同じ気持ちだ。俺も。」
「母ちゃんのこと好きなのか?」
タイミングを測ったように、足元に垂れ下がっていたクレーンが動き始めた。
重そうな首を地面に擦って宙に浮き上がる。
少しずつ吊り上がって行く。
吉良は、片手でクレーンを掴みながら言った。
「お前の勇気は認める。お前は俺の命の恩人だ。でも、これ以上は手を出すな。お前が母ちゃんを守ろうとしたように、母ちゃんもお前を一番守りたいと思ってる。お前が死んで一番悲しいのは、お前じゃなくて母ちゃんだ。いいな。」
望が聞きたかった答えにはなっていない。
だが吉良はそれ以上何も言わず、望の元から飛び出して行ってしまった。
望は思う。
吉良が自分の質問に答えなかったのは、母のことが嫌いだからじゃない。
好きだからこそ答えなかったのだ。
理屈ではなく、直感的に望はそれを感じ取っていた。

沖田は銃を構えて、ドラム缶の影から出て来る吉良を待った。
今度こそ仕留めるつもりで銃を構えていた。
しかし、沖田が待っていたのは宙吊りのままの吉良であって、自分に襲いかかって来る吉良ではない。
そこに油断が生じた。

 

 

吉良はクレーンを掴んだまま、その戻りの振れに乗じて勢いよく飛び出した。
真正面に立つ沖田の顔面を、まともに吉良の蹴りが襲う。
思いもかけない攻撃で、沖田は呆気なく弾け飛んだ。
仰向けに倒れて朦朧とする沖田の手を、吉良がゆっくり、だが容赦なく踏みつける。
「えらく世話になっちまったなぁ、沖田よぉ…。」
沖田の顔から血の気が退く。
手の中の銃を押さえられて、どうすることも出来ない。
「さっ、銃を返してもらおうか。」
渋る沖田。
その手を吉良は、思い切り踏みにじった。
「うわぁ…っ!」
沖田の手から銃が離れる。
「どうも。」
吉良は銃を拾うと、起き上がらせないように、今度は沖田の額を足で押さえた。
沖田が顔を引き攣らせる。
わなわな唇を震わせて、吉良に懇願する。
「た…助けて…吉良さん。あ…謝ります。今までのこと 全部 謝ります。償いなら何でもしますから…だから…殺さないで…下さい…!」
吉良は全く無表情に、プライドのすっかり抜け落ちてしまったその男を見降ろしていた。

 

 

眼に青い光が浮かぶ。
トリガーが軋む。
「吉良さんっ‼︎ やめてぇっ‼︎」
背後から掛かる夢の声を無視して、吉良は二度引き金を引いた。
「ぐわあぁぁっ‼︎」
沖田の物凄い叫び声が、廃工場の天井にこだまする。
恐怖が辺りを包み込み、全てのものの動きが止まった。
…静寂。
やがて、最初に声を発したのは…沖田だった。
「甘いな…夢さんの…一言が…こんなに…効く…とは…ね。僕の命乞いよか…よっぽど…威力が…あ…る。当り前…か…。」
沖田の両足の太ももは、完全に撃ち抜かれていた。
しかし辛うじて命だけは助けられていた。
フンと鼻を鳴らして吉良が踵を返す。
黒服の男たちが、慌てて工場から逃げ出して行く。
「おい、ちょっと待て!お前。」
吉良に背後から呼び止められ、黒服の男の一人が凍りつく。
「さっき動画撮ってたのは、お前だな。」
震えているのか頷いているのか分からない様子で、男が何度か首を縦に振る。
「その手に持ってるカメラ、真上に放り投げてそのまま走れ。振り向かずに全力でだ。」
男がまたカタカタと首に縦に振る。
ビデオカメラが空中に放り投げられた瞬間、吉良が銃の引き金を引く。
カメラは空中で粉々に砕け散った。
全力疾走する男はギリギリのところで、カメラの残骸の雨を回避し、扉の外へと転がるように出て行った。
吉良が銃を収める。
これでタチの悪い「忠誠の証」は消え去った。
残るは早川、只一人。

 

暗殺者ーメシアー20 へ続く

 

暗殺者 − メシア – 18

18


「君は僕と結婚するんだ。」
早川が言う。

『してくれ』でも『して欲しい』でもなくて『するんだ』…?
夢は、あ然とした。
(何言ってんの? この人、頭おかしくなっちゃったんじゃないの? 今更…しかも こんな状況でプロポーズはないでしょ…。)
しかし事はそんな生優しいものではないらしい。
「君は僕と結婚する義務がある。」
『権利』と言われても放棄したいところだが、早川は『義務』だと言っている。
更にタチが悪い。
一体どういう意味なのだろう。
「君の我儘のせいで僕は酷い目に合ったんだ。これは君の僕に対する償いさ。」
何なのだ…! 何を言っているのだ…この男!
むしろ、この男のせいで酷い目に合ったのは夢の方である。
「ちょっ…ちょっと待って! 早川さん。私、あなたの言ってること、全然 意味が分らないんですけど…」

「放っとけ、放っとけ! イカれたヤツと真面目につき合ってると、お前まで おかしくなっちまうぞ!」
高い所から、吉良の突っ込みが入った。
全くコリない男なのだ。
早川が物凄い勢いで吉良を睨みつける。
「ね、ねぇ、早川さん。話を進めましょ。で、どうして私があなたと結婚しなくちゃいけないの?」
急いで、夢は早川の気を逸らせた。
落ちついて話もしていられないではないか。
「私を殺そうと思ってたんじゃなかったの?」
質問を重ねる。
やっと気を取り直して早川が話し始めた。
「そうだ。君を殺して神崎に復讐するつもりだった。」
「復讐…っ?」
「君は知らないだろうが…。君が女のことぐらいで家を出たりするから、僕は神崎の怒りを
買ってしまってね。会社を追い出されたんだ。酷い話じゃないか…。親バカもいいとこさ。」
早川は、自分のことを棚に上げておいて、夢の父親のことを激しく恨んでいるらしい。
「そこで僕は僕の握っていた神崎財閥のトップシークレットを手土産に、神崎のライバル・コンツェルンに入り込んだ。だが神崎はそのくらいのことでは大したダメージを受けやしない。悔しかった。悔しくて、悔しくて、何か復讐の手立てはないかと随分考えた。そして思いついたのが君を殺すこと。本人を殺すよりも、精神的ダメージが大きい筈だからね。どうだい? いい考えだろう。」
夢には得意気に微笑む早川を理解することは出来なかった。
異状者だとしか思えない。 …でも。
早川は夢の家出の原因を『女のことぐらいで』だと言った。
だが夢は『会社をクビになったぐらいで』人殺しを考える早川の方がどうかしていると思う。
きっと、絶対に理解し合えない部分で価値感の違いがあるのだ。
夢にとって、あの日のあの出来事が人生を変えてしまう程の重大事件だったように、早川にとっては、会社をクビになったことが人殺しに値するくらいの大問題だったのだ。
だから、早川だけが異状だとは言い切れない…のかもしれない。
そう考えることで、夢は早川を愛した昔の自分を少しでも慰めたかった。
「それが どうして 私と結婚するって言う話になっちゃうの?」
夢が訊く。
早川はちょっと笑って、あっさり答えた。
「気が変ったのさ。」
「……?」
「沖田くんには、吉良くんの様子を探る為に下宿に一緒に入ってもらってたわけなんだが、その報告の中に 当然 君も出て来てね。そこで僕は君が変ったのを知ったんだ。情報の中の君は実に生き生きと輝いていた。人形のように周りの言いなりの昔の君とは全く違って、とても魅力的になっていた。だから、殺すのが惜しくなったのさ。会って、ちゃんと確かめて、本当に君が僕の妻にふさわしい女になっていたら、結婚しようと思った。そして、神崎財閥を手に入れる。形は変るが僕の復讐は、まぁ、ほぼ達成されるってわけさ。」
流し目加減に、早川が夢を見る。
昔の夢なら、胸がときめいていたところなのだろうが、今の夢には悪寒が走った。
そこのところの違いも分ってくれれば幸いなのだが....。
「君は合格だ。結婚しよう。」
早川が当り前のように言ってのける。
いい加減、夢の我慢は限界だった。いくら何でも話が理不尽過ぎる。
考え方を変えたぐらいでは、とっても この怒りを鎮めることは出来ない。
「ふざけないでよっ! 何で 私が あんたなんかと結婚しなくちゃならないのっ? どうして私があんたの復讐の片棒を担がなきゃいけないのよ‼︎ 脳ミソ沸いてんじゃないのっ⁈ あんたと結婚するくらいなら、ジャングルにでも行って、そこの猿と結婚した方がマシよ‼︎ 雄猿の方がよっぽど男らしいわっ! あんたなんか猿以下‼︎ 猿以下の人でなしよっ‼︎」
(おいおい…そこまで言うか。完全に切れてんな、あいつ。)
今度は吉良の方が、冷や冷やしている。
「それでも君は僕のものになるしかないんだ。あの男を死なせたくなければね…。」
早川は冷淡な笑みを浮かべて言った。
ハッと夢が口を噤む。
(卑怯者‼︎)心の中で叫んだ。

「猿以下の男と結婚しなくて済むのなら、あの男の命なんかどうでもいい…そう思うなら、それでもいいよ。君は帰っていい。僕も男だ。これ以上、君を追いかけ回したりはしない。諦めるよ。約束する。さぁどうするかな?」
夢が吉良を見捨てられる筈がないのを知っているからこそ、こんな寛大なことを言っているのだ。
早川の表情にそれが有り有りと現れていた。
悔しい。しかし、言い返せない。
でも、だからと言って、簡単に早川の言いなりになることもしたくない。
夢は黙って唇を噛み締めた。
見兼ねて吉良が言う。
「せっかくのお言葉だ。さっさと帰っちまえよ。こういう我儘坊主には、今のうちに何でも自分の思い通りになるもんじゃねぇってのをお教えとかないとな。ろくな大人になれねぇ…あ、もう手遅れか。」
「…何だとぉ?」
どうやら吉良は、人を殺すことよりも人を怒らせることの方に才能があるらしい。
「沖田くん! この減らず口を何とかしてくれないかっ? 話が出来んっ!」
「了解。僕も退屈してたとこですよ。」
沖田は明るく応じて、黒服の男達に声を掛けた。
「少しだけクレーン下げて、吉良さんの体揺らして貰えますぅ?吉良さんの忠告通り、僕、銃の練習しとかなくちゃ。」
夢の背筋に冷たいものが走り抜ける。
「お…沖田さ…ん…」
「ああ、夢さん。吉良さん助けたくなったら早目に言って下さいよ。僕、銃の腕が確かじゃないから、いつ心臓に当っちゃうかも分りませんからね。もし間違って当っても僕のこと恨らまないで、すっぱり諦めちゃって下さいよ。それも運命ってことで。」
最初から、他の所など狙うつもりはないのだ。
沖田は、揺れる吉良の心臓を的にして、射的ごっこを楽しむつもりだ。
クレーンが下がる。
そして、男たちが力一杯吉良の体を揺らし始める。
「冗談…やめて…そんな…嘘でしょう…? 吉良さんは…沖田さんも…今まで一緒に仲良く暮らしてて…それなのに平気で…こんなこと…」
声が震えて、口も上手く回らなかった。
夢は、撃たれた傷の痛みと恐ろしさの為に、力の入らなくなっている手で、精一杯沖田の腕を掴んだ。
「やめて!」
「何だったら、夢さんも練習してみる?」
沖田が笑う。
そうしながら、あっさり銃の引き金を引いた。
「うっ…‼︎」
吉良の横面に赤いラインが走る。

 

 

「ヘタくそっ。何処 狙ってんだよ。」
あくまでも態度を改めようとしない吉良。まさに自殺行為である。
「いやぁっ‼︎ やめてぇっ‼︎」
夢が必死で沖田にしがみついた。
たとえ吉良が死にたがっているとしても、そうはさせられない。
お涙の溜まった瞳を上げて夢は言った。
「分ったわ。分ったから…もう…やめて。お願い…。私…私…早川さんと…」
「黙れっ‼︎ 夢っ‼︎ いい加減な戯言は止めろっ‼︎ こんなことぐらいで、お前、一生そいつに縛られるつもりかっ⁈ 俺が死のうが生きようがお前には何の関係もないっ‼︎ 俺みたいなヤツは ここで死ななくても、どうせ ろくな死に方しやしねぇ!! そんなことは最初(はな)から分り切ってることなんだっ‼︎ だから俺に構うなっ‼︎」
パシュウ‼︎
「うわぁ…っ‼︎」
さすがの吉良から叫び声が漏れた。
弾がまともに脇腹に命中したのだ。
「くぅっ…!」
苦しそうに顔を歪める。
黒のタンクトップが見る見る濡れたような色に変色していった。
「吉良さんっ‼︎」
「早く…帰っち…まえ…。」
それ以上は声にならない。
額から汗が吹き出し、唇も色を失くしている。
放っておいたら吉良が死んでしまう。
夢は大声で言った。
「私、早川さんと結婚しますっ‼︎」

 

 

ガランとした工場に響く声が胸に痛い。
でも仕方がない。
吉良の命にはかえられない。
「ばかやろう…夢…」
力なく掠れた声で吉良は言った。

 

暗殺者ーメシアー19 へ続く

 

暗殺者 − メシア – 17

17


男達が吉良の両手をロープで縛り始める。しかし、これがまた手際が悪い。
縛られる吉良の方が苛立つ程だ。
「…ったく、こいつら。こんなこっちゃ朝んなっちまうぜ。」
沖田はそれを眺めながら、ゆっくり吉良の方へ近づいて行った。
途中、銃を拾って腰に挟み込む。
何を思ったのか、ついでに沖田は足元の太いチェーンも掴み上げた。
無雑作に手の甲にチェーンを巻きつけ、更に吉良に近づく。
そして、いきなりその手で、力一杯、吉良の顔面を殴りつけた。

 

 

「いっ…いやぁ‼︎」
夢が堪り兼ねて、早川の腕を飛び出そうとする。
ナイフなどもう目に入らない。
「来るなっ‼︎」
吉良が怒鳴った。
夢が身を竦める。
「…心配ねぇから。ちょっとは大人しくしてろよ。」
吉良は、深く優しい眼差しを夢に向けていた。
「…吉良さん。」
嘲笑うかのように、容赦なく続く沖田の攻撃。

両手の自由のきかない吉良は、サンドバックのように、ただ拳を全身で受けとめ続けるしかなかった。
ゲホッ…! 吉良が血を吐く。
それでも血まみれの顔を上げ、吉良はニヤリと笑って言った。
「実は意外とお前、夢を取られちまったの根に持ってんじゃねえのか…?」
「…何ぃ? 」
沖田は、吉良の胸ぐらを掴んで引きずり起こし、ドラム缶に押しつけた。
「僕が夢さんに ちょっかい出してたのは、あなたを煽る為ですよ。あなたが夢さんに惚れてしまって殺せなくなれば、必然的にあなたの仕事は僕に回ってくる。只のあなたの監視役なんてつまらないですからね。」
「へっ…どうだかな。」
ムッとした沖田の拳が吉良を襲う。
吉良はドラム缶ごと、後ろへ倒れ込んだ。
辺り一面に血が飛び散る。
「……もう、もう…やめて…。」
夢は顔を覆って肩を震わせた。
その肩を早川が優しく抱き寄せる。
すっかり無関係な立場に収まって、夢を労っているつもりらしい。
思わず夢は、平手で早川の頬を打った。
「触らないでよっ‼︎ どうしてあんなことさせておくのっ⁈ 吉良さんを酷い目に会わせる理由なんてないんでしょ? 私に用があるなら早く言ってっ! 殺したいなら殺してもいいっ‼︎ だから他の人を巻き込まないでっ‼︎ 沖田さんにあんな酷いことさせないでっ‼︎」
早川が髪の乱れを直しながら言う。
「彼の仕事は 一応 終ってるんでね。僕に彼を止めることは出来ない。誰も他人の趣味に口出しする権利はないよ。」
「趣味ですってっ⁈ こんなの犯罪じゃないっ‼︎ 放っておいたら、あの人きっと吉良さんを殺しちゃうっ‼︎ 殺人事件になっちゃうかもしれないのよっ‼︎」
「どうせ、人殺し同士なんだ。事件にもならんよ。 放っておけばいい。」
「酷い‼︎」
同じ人間の死を高処の見物しようというのか。こんな男をかつて愛した自分さえ、夢は許せない気がした。
「そういう人達を使って、あなたは私を殺そうとしたんでしょっ? 直接 人殺しするより、ずっと汚いじゃない!あなたは卑劣よ! 卑怯者よっ‼︎」
突然、背後でクレーンの上がる音が聞こえた。
ハッとして振り返ると、吉良が天井に吊り上げられて行くところだった。
手首に巻きつけられていたロープがチェーンに変っている。
吉良の重みでそれが手首に食い込み、見ているだけでも辛い。
「やめてっ‼︎」
早川の隙をついて、夢は沖田に駆け寄った。
「お願いっ‼︎ やめて‼︎ 何をするつもりなのっ? 沖田さん⁈」
「本当に困った人だなぁ…。君は早川さんとお話ししててくれよ。僕の邪魔をすると、また痛いめに合うぞ。」
そんな脅しぐらいでは、今の夢を止めることは出来ない。
「どうしてなのっ? どうして こんなことしなくちゃいけないのっ? 沖田さん、変だよ。まるで吉良さんのこと憎んでるみたい…。」
沖田が皮肉に笑った。
「憎む? 冗談じゃない。この男にそんな価値はないね。一流の殺し屋なんて言うのは名ばかりのつまらない男さ。あっさり僕の仕掛けた罠に嵌まっちゃうし…。手応えないったら…。」
「罠?」
「そ! 吉良さんは僕の暗示に掛かったのさ。だから君を殺せなかった。そして君の方には、吉良さんの正体を分からせて遠去けるつもりだった。鞄を目につくように置いといて、銃を見つけさせたり。コートを洗濯カゴに入れておいて、君に写真を見せたりね。只、君は吉良さんみたいに僕の思う通りには動いてくれなかった。僕の計算では、吉良さんは君のことを好きになるけど、君は僕に靡く筈だった。僕の方に気を許してくれるようになる予定だったんだ。けど、君を吉良さんから切り離すのは大失敗に終っちゃった…。君がそこまでおバカさんだとは思わなかったからね。殺し屋だと分ってる男に本気で惚れちゃうなんて…。吉良さんにしたってそうさ。いくら暗示に掛かったからって、たった一人の女の為に仕事を完全に投げ出しちゃうなんて、愚かとしか言いようがない。」

(…え?)
「吉良さんが…仕事を投げ出した…?」
夢は恐る恐る訊き返した。
「そうさ。君をどうしても殺せないから、早川さんに依頼料突き返した。つまり、 君を殺すことをすっかり諦めたってわけ。」
(吉良さんが…)自分の為に仕事を放棄した。
ずっと吉良が抱えていた心の葛藤や板挟みの苦しみを夢は始めて知った気がした。
(吉良さんは、苦しんでたんだ…。私なんかの為に…ずっと…。)
「うるっせぇなっ‼︎ 何、勝手なこと ほざいてやがんだっ‼︎ このボケがっ‼︎」
上から吉良の声が降ってくる。
「だって本当の事でしょう?」
「違う! 俺は只、あんまり つまんねぇ仕事だから、やる気がしなくなっちまっただけだ。暗示がどうしたこうしたって、どうもお前は最初っから、そこんとこ勘違いしてるみてえだな。」
沖田はクールに言い返した。
「じゃあ何故、夢さんの命を何度も助けたりするんです?」
勝ち誇ったように沖田が言う。
それでも吉良は折れようとしなかった。
「他のせこい殺し屋に、仕事 取られんのが気ぃ悪りーからだよ!」
沖田が呆れた顔で肩を竦める。
「素直じゃないな…。死ぬ前に愛の告白させてあげようと思ったのに…。ま、いいや。とにかく仕事は僕のもんになったんだし…。これで吉良さんを始末しちゃえば、僕は裏の業界のスーパースターになれる。一流の殺し屋の仲間入りだ。」
やっぱり殺す気なのだ。
夢は沖田の腕にしがみついて、泣き声まじりに懇願した。
「お願い! やめてっ! もういいじゃない。何も殺すことまでしなくても、もう これで十分でしょ? あなたは十分一流よ…きっと。」
何がどうなれば一流ということになるのかは、よく分らないが…。
「今、殺らなきゃ。吉良さんを生かしておいたら、後で僕が殺られる。必ずね。吉良さんはそういう恐しい人だよ。」
「そんなことしないっ‼︎ 絶対しないよっ‼︎ 吉良さんはそんな人じゃないっ‼︎ 私、知ってるもんっ‼︎ 本当は優しくて良い人だよっ‼︎ そうだよね! 吉良さんっ‼︎」
夢の瞳は真剣だった。
命ごいの為の言い繕いなどではない。
本気で吉良を信じている…そんな瞳で吉良を見つめていた。
しかし、吉良はそれを鼻で笑い飛ばした。
「お前は知らねぇだけさ。沖田の言う通りだぜ。今、俺を殺らなきゃ、地獄の果てまで
追いかけて行って、ぶっ殺してやる。」
「·····そんな。」
悲しそうな夢の顔から目を背けて、吉良は沖田に言う。
「特に、お前には他にも貸りがあるからな。この間、夢と一緒に車で轢き殺されそうになった分だ。」
「あれは不加効力ですよ。別にあなたを狙ったつもりはない。」
「だから、お前は一流の殺し屋になれねぇんだよ。いや殺し屋の端くれにもなれやしねぇ。」
「何ぃ…?」
(自分の立場、分ってんのかしら…この人。)
夢は気がきではない。
「あんなもんプロの仕事じゃないっつってんだ! もし、夢と一緒にいたのが早川だったらどうする? お前、依頼人も不加効力で一緒に殺しちまうのか? 夢を風呂場に閉じ込めたのもそうだ。望を攫えばいいだけのことを、わざわざ夢をあんな目に会わせて、どういうつもりだ? 下手すりゃ夢は死んでた。 夢を早川に会わせることも出来なかったんだ。どれを取っても少しも確実なやり方じゃない。しかも、風呂場の件でお前は自分の正体バラしちまった。あんだけ家の中に凝った仕掛けをすれば、家の事情に詳しいヤツがやったとしか思えない。俺じゃなければお前しかいない。そうだろ? お前のやってるのは只のお遊びさ。サディスティックなゲームを楽しんでるだけだ。お前は殺し屋でも何でもない! 狂ったサディストの殺人鬼だっ!」

ついに沖田のポーカーフェイスにひびが入った。
「貴様にそんなことを言われる筋合いはないっ‼︎」
そう叫ぶと、沖田は腰に挟んだ銃を引き抜き、吉良めがけて発砲した。
パシュウ‼︎
「いやぁっ‼︎」
弾丸が、吉良の足に食い込む。
「くっ…!」
「吉良さんっ‼︎」
しかし、吉良は またしても不敵に笑いながら顔を上げた。
「お前…今、胸を狙ったろ? 惜しくもねぇ大はずれだよ。その腕前でまさかとは思うが、銃を扱う殺し屋を目指してるっつうんなら…銃の取説読むところから始めろ。出直して来い!」
「何だとぉっ‼︎」
沖田が引き金を引く。
「やめてっ‼︎」

 

 

銃の真正面に飛び出した夢の肩先を弾丸が掠める。
「あっ…!」
肩を押さえて蹲る夢。
押さえた手の指の間から血が滲み出す。
「夢っ‼︎」
吉良は自分が撃たれた時よりも、ずっと青くなって声を荒げた。
「アホか!お前はっ‼︎ 滅茶苦茶すんなっ‼︎ 余計なマネしないですっ込んでろっ‼︎」
「吉良さんこそ、ちょっとは口を謹んでよっ‼︎ バカっ‼︎‼︎ 何で わざわざ 沖田さんを怒らせるようなことばっかり言うのっ⁈ 死にたいなら私の見えないとこでやって! 吉良さんが死ぬとこなんて私、見たくない‼︎ 放っとけないよ…! 吉良さんが死んじゃうなんて…嫌だもん…。絶対嫌だから…‼︎」
肩の傷から流れる血が、まるで心から溢れ出ているように、淡い色のスーツを染める。
夢は険しい表情のまま、でも暖かく吉良を見つめた。
「…バカが。俺はお前を殺そうとしてたんだぞ。何度もお前に向けて、引き金を引こうとしたんだ…。」
真っ直ぐな視線が痛くて、吉良は目を上げることが出来ない。
「でも引かなかった‼︎ 吉良さんは一度も私のこと本当に撃ったりはしなかった!」
二人は初めて、お互いをひたむきに見つめ合った。
邪魔するものは、もう二人の視界には入らない。
只、抱き合うように熱く視線を交していた。
それでも無粋な声が、無理矢理 割り込む。
「邪魔して悪いが、僕にも夢と話しをさせてくれないか? 吉良くん。」
早川は沖田の方にも言う。
「すまないけど彼を殺すのは、ちょっと待ってくれ。」
早川だった。
「早川さん…。」
一瞬は、早川の言葉を好意的に受け取った夢だったが、話には続きがあった。
「あの男、利用出来る。子どもより使えるかもしれん。あいつを押さえていれば、夢は僕に素直に従ってくれそうだ。」
「それ面白そうですね。 いいですよ。只、殺すより楽しそうだから協力します。」
世間話でもしているように楽し気な二人。
…寒気がした。
ふと夢は、他に気を取られる間に望の姿が消えてしまったことに気づいた。
こっそり辺りを見回してみたが、やはり居ない。
何処へ行ったのだろう…。
隙を見て逃げてくれていればいいんだけど…心配そうに眉を顰めながら、夢は思った。

 

暗殺者ーメシアー18

 

暗殺者 − メシア – 16

16


もうほとんど車の見当らない巨大な地下駐車場で、早川は一人先を急いでいた。
「…ったく! どいつもこいつも…‼︎」
しきりに ぼやいている。
靴音まで尖った音を立てて、駐車場に響いた。
早川は夢を待つために、この時間まで会社に残っていたのだが、そこへ現われたのは夢ではなかった。
前に軽い気持ちで手をつけた飲み屋の女。
女は酒が入っているらしく、やたらに早川に絡んで来た。
さらに続けて、吉良がこちらに向ったという情報が入って来たから堪らない。
早川はパニックに陥った。
女を早く帰して逃げ出さなければ、今度こそ本当に吉良に殺される。
完全に敵に回した殺し屋程、恐しいものもない。
しかも自分はどう考えても、吉良に好かれていない。
当然、手加減などもあり得ない。
しかし、女はしつこく管を巻き、帰ろうとはしない。
どうしようもない状況を掻い潜って、やっと何とか早川はそこから抜け出して来た。
いや、逃げ出して来たというべきだろう。
目前に車が見えた。 早川は、ほっと車に近づき、ドアを開けようとした。

 

 

こめかみに銃を突きつけられる。
「き…吉良…!」

吉良は引き金を軋ませながら、愛想なく聞いた。
「望はどこだ。死になくなかったら、今すぐ答えろ。」
「ぼ…僕が死んだら…望くんの居所は分らんぞ。こんな事も…あ…あろうかと、絶対 分らない場所に連れてったんだ。もし僕に手を出してみろ。ぼ…僕の部下が、望くんをどんな目に会わせる…か…」
内心びくびくの早川だが、人質を取っている強味があるので、かろうじて大きな口をたたく。
吉良は鼻で笑った。
「そーかよ。ま、心配すんな。後のことは、お前が死んでからオレが考える。死人にゃあ関係のねぇこった。」
痛い程、こめかみに食い込む銃口
早川の顔から血の気が引いて行く。
「…わ…分った。案内する。だから…吉良くん…短気は起こさないでくれよ!」
どんな切り札であっても、早川の小心を補うことだけは出来ないようである。

 

夢はハッと目覚めた。
頭はまだぼんやりとして、状況を把握出来ないでいるのに、目だけは吉良を捜している。
吉良の姿がどこにも見当らない。
…そうだ!
頭が働き出すと同時に夢は跳ね起きた。
望が誘拐されたのだ。
そして、自分は望を助けるために早川の所へ行こうとしていた。
「吉良さん…。」
きっと吉良は、夢の代りに望を助けに行ったのだ。
慌てて、電話台の上を確めたが、そこにあるはずのメモは失くなっていた。
やっぱりそうだ。
吉良は早川の所へ行ったに違いない。
しかし、肝心のメモがなくては後を追うことも出来ない。
「どうして、持ってっちゃうのよ! 住所ぐらい見て覚えなさいよ…もう!」
自分だって覚えていないくせに、夢は勝手なことを言った。
そのメモに書いてあったのは、早川の会社の住所だった。
当然、吉良は一目でそれが分った。
にも関わらず、メモを持ち去ったのは、むろん夢に後を追わせないためである。
夢は取りあえず、着換えを済ませた。
行き先は分らなくても、じっとしてはいられない。
もしかしたら早川からもう一度、連絡が入るかもしれない、
準備だけはしておこう、そう思ったのだ。
きちんとしたスーツを着て、髪を整える。
久しぶりに化粧もした。
早川にだけは、みすぼらしい姿を見られたくなかった。
それは夢のプライドであり、そして、ほんの僅かな女心でもあった。
「夢さぁーん‼︎」
その時、表で声がした。
玄関の格子戸を外から叩く音が聞こえる。
「沖田さん…?」
夢は、鍵を外して戸を開いた。
沖田が息を切らせて飛び込んでくる。
かなり慌てた様子だった。
「望くん、さらわれたんだって? さっき吉良さんに偶然会って聞いたんだけど…。」
「吉良さんに…? 何処で? 何処で吉良さんに会ったのっ?」
それを手掛かりにすれば、吉良と望の居所が分るかもしれない。
夢は、沖田との間の気まずさなど忘れて、沖田に詰め寄った。
「え…ええと…口では説明しにくいな…。」
「じゃあ、いいわ! そこへ私を連れてって!」
夢の勢いに圧倒されつつ、沖田が夢を先導して行く。
沖田はまず、広い通りまで行ってタクシーを捕まえた。
それに夢を乗せ、自分も後から乗込み、行き先を告げる。
「ええと…」
たどたどしい説明だった。
それでも運転手には伝わったらしく、車が走り出す。
どんどんスピードの上がるタクシーの中で、何となく夢は小首を傾げていた。
(早川さんが言ってた住所、そんな遠かったかな…?)

早川の車は、港の脇にある工場地帯に入って行った。
(…ったく。何だってこんな遠くを監禁場所に選びやがるんだ。自分だって不便だろうに…。)
吉良がぶつぶつ思っているうちに、車は廃工場の前で止まる。
閑散とした寂れた感じは、いかにも人質を隠す場所らしい。
早川はきっと刑事ドラマが好きなのだろう…。 呆れ気味に吉良は思った。
(物事、形から入りたいタイプなわけだな。)どうでもいいことまで分析する。
工場の扉が、ギィギィ軋みながら雰囲気を出して開くと、中には、縛り上げられた望と、それを囲むように立つ、黒ずくめの男が5、6人いた。
ギャング風に装うその男達、どうやら早川の会社の社員らしい。
黒のスーツは、よく見ると防虫剤の匂いのしてきそうな礼服だった。
押し入れから、引っ張り出して来たってか…? …と吉良。
本物のギャングにでもなったつもりの男から、不安そうに落ち着かない男、皆それぞれではあるが、全員一様に汗だくになっていた。
そりゃそうだ。
真夏の閉め切った工場の中、息のつまりそうな黒いスーツを着込んで、暑くないわけがない。おまけに慣れない犯罪の片棒を担がされて緊張している。
汗も出るだろう。
吉良は何だかやる気が萎んでいくのを感じた。
望を助ける目的があるので、そんなことも言っていられないのだが…。
「子どもの命が惜しければ銃を捨てろ!」
吉良に銃を突きつけられながら、早川が言った。
吉良は望を囲む男たちを見回して、素朴な疑問を口にする。
「で、どうやって望を殺すつもりなんだ?」
それも当然。
何しろ誰一人、武器らしい物を持っていないのだ。
男たちに動揺が広がる。

 

 

礼服はともかく、武器を持って来いなどというのは回覧で回ってこなかった。
そんな風にでも言いた気な様子。
早川が慌てて叫ぶ。
「く…首を締めて…殺すぞ!」
呆れ返る吉良。

(何だって、こんなに計画性がないんだ…ナメてんのか。)
「あのなぁ…俺、銃持ってんだぞ。望の首締めてる間にお前ら皆殺しにしちまうぞ!」
益々、男達に動揺が広がる。
吉良は苛立った。
手応えがなさ過ぎる。
簡単過ぎてつまらないという意味ではなく、何だか おかしいのだ。
ヤツはどうした? あのやたらに手の込んだ仕かけの好きなスナイパー。 何故いない?
望をさらった時点で仕事は終りか…?…いや。

嫌な予感がする....。早くことを済ませ、下宿へ戻らなければ…。
吉良はいきなり、早川を突き飛ばすと望の方へ向った。
「どけっ‼︎」
吉良の一喝で望を囲んでいた男達が、クモの子を散らすように散り散りに物影へ逃げ込む。
吉良はもどかしそうにする望のロープを外し、猿ぐつわを取ってやった。
口が聞けるようになった途端、望が叫ぶ。
「沖田だ‼︎ おっちゃん、沖田がオレをここへ連れて来たんだっ‼︎ んで今、母ちゃんとこへ…」
「またお会い出来て光栄ですよ、吉良さん。」
入口に、相変らず愛想のいい笑顔を浮かべた沖田が立っている。
吉良は大して驚くふうもなく、ゆっくり振り向いた。
「よう...。 えらく遅いから、もう来ないのかと思ったぜ…。」
「いえいえ、僕は吉良さんと違って、途中で仕事放り出したりしませんよ。あなたのお節介のせいで一つ仕事、増えちゃったんですけどね…。残業手当てもらわなくちゃ。」
その時、ハイヒールの靴音が忙しなく響いて来た。
夢の声。
「沖田さん! 待ってよ! この靴じゃ、そんな早く歩けませんよ!」
吉良が大声で言う。
「来るなっ‼︎ 夢っ‼︎ そのまま逃げろっ‼︎」
「え?」
きょとんとした様子で、夢が顔を出した。
すかさず沖田が夢の肩を抱く。
「あの…ちょっと…!」
「せっかく迎えに行ったのに、そんな簡単に帰すわけにはいきませんよ。…ねえ、夢さん。」
何がどうなっているのか さっぱり分からず、戸惑う夢。
「迎え…って? …吉良さん?」
不安そうに吉良を見る。
「…沖田!」
激しく睨みつける吉良を小バカにするように沖田が言う。
「夢さんを一人で下宿に残しておくなんて、安易過ぎましたね。それとも、夢さんを傷つけるのが嫌で連れて来れなかったのかな? どうせ早川さんと夢さんを会わせたくない…とか、そういう緩いこと考えたんでしょ?」
「やめろ…。」
「まるっきり牙の退化しちゃった獣みたいだ…今の吉良さんは…。」
「ねえ…どういうこと?…あなたは…一体…」
望が再び叫んだ。
「こいつが、オレをここに連れて来たんだっ‼︎ 沖田は悪者なんだよ! 母ちゃんっ‼︎」
最も分りやすい解説だったようで、夢は弾かれたように沖田の腕から飛び出した。
そして、吉良の所へ…行こうとする夢の腕を沖田が荒々しく掴んだ。
「きゃっ‼︎ あーっ‼︎‼︎」
掴まれた右腕が背中で捻り上げられる。
沖田は薄笑いを浮かべながら言った。
「まだ、傷、痛みます? 可哀そうに…。吉良さんが銃を捨ててくれたら、すぐ放してあげますからね。」
優しそうな言葉とは裏腹に、捻りつける腕にどんどん力が加わっていく。
「くう…っ!」
いくら歯を食い縛っても思わず声が出てしまう。
夢の脳裏に、自分を襲おうとした時の沖田の目と、風呂場の恐怖が蘇った。
(この人だ…! この人が私をお風呂場に閉じ込めたんだ…!)
「やめろっ‼︎」
吉良の声が飛ぶ。
「分った。銃を捨てるから、夢の手を放せ!」
「ダメよっ‼︎ そんなことしたら、吉良さん、殺されちゃう! もういいから、望と一緒に帰ってっ‼︎」
必死で訴える夢の背中を不意に沖田が押さえつけた。
そのままの状態で、右腕を 普通 曲らない方向へ勢いよく、引き上げる。
「きゃあぁぁ…‼︎」

あまりの激痛に叫び声を上げる夢。
沖田はその声を楽しそうに聞きながら言った。
「余計なお喋り出来ないように、この腕、折っちゃいましょうか? 痛くて喋る気しなくなっちゃいますよ…きっと。」
「やめろっつってんだろっ‼︎」
沖田に叫んだ後、吉良は夢に言う。
「黙ってろ! こいつのことだ。平気で腕ぐらい折るぞ。」
潔く吉良が銃を投げる。
そうしながら、傍の望に小声で言った。
「隙見て逃げろ。自分の身は自分で守るんだ。走り出したら、死んでも振り向くな。分ったな。」
じっと吉良を見つめた後、望はそっと頷いた。
「さすが吉良さん。何があっても動じないって感じですね。」
「お前にゃ、負けるけどな。オレは何枚も仮面持ってねえから。」
沖田が唇の端を歪めて笑う。
そして、乱暴に夢の腕を放して早川の方へ押し出した。
すっかり感覚のなくなった腕。
夢は抵抗する力もなく、なされるがままの状態だった。
「確かに、夢さんはお引き渡ししましたよ。後は、ぼくの好きにさせてもらって構いませんか?」
早川は沖田の残忍さを見て怯んでしまっている様子で、やたら低姿勢に振舞う。
「ああ、もちろん。よくやってくれたね。助かったよ。後は、君の自由にしてくれて結構だよ。」
これが、あの早川なのか…夢は何んだか情けない気分になった。
「ちょっと待って。好きにするってどういうこと? これ以上、何をしようっていうの? 私に用があるんでしょ? だったら…」
いきなり夢の目の前にナイフが飛び出す。
それを喉元に突き付けられて夢は息を飲んだ。
沖田がナイフで夢の顎を掬い上げながら、早川に言う。
「この人、あなたより遥かに根性ありますからね。これでちゃんと大人しくさせておいてもらえますか? 何しろ僕の送り込んだワンちゃんに自分の腕、噛ませちゃう人だから。」
(ワンちゃん…⁈)
「あ…あの犬も…あなたが…
さすがに夢の声が上ずった。
(何て恐い人なの…!)
「そ。だからね、僕、犬の敵打ちもしなくちゃならないんです。早川さん、お願いします♪ 」
沖田が早川にナイフを渡す。
こちらで話しをしながらも、沖田の目はずっと吉良を見据えていた。
全く油断がない。
「じゃ…始めましょうか…。」
何をしようと言うのだ。
夢は不安で居た堪れなくて、今すぐにでも飛び出して行きたい気分だった。
しかし、飛び出したくても、後ろから絡みつく腕と、喉元の鋭いナイフがそれをさせまいとしている。
…そして、夢がそういう状態である限り、吉良もまた抵抗出来ないのだ。
自分さえ来なければ…そんな思いが、夢の胸を締めつけた。
「ちょっと僕、面白いこと考えたんで、あの天井のクレーン降ろしてもらえます? それで、吉良さんのこと、吊るしちゃって下さい。」
沖田の指示で黒服の男たちが動き出す。
そのどさくさに吉良は後ろ手で望に合図した。(今だ、逃げろ)
山積みされたドラム缶の影へ、こっそり身を隠す望。
(上手く逃げろよ…。)吉良は胸の中で呟いた。

 

暗殺者ーメシアー17 へ続く