めかかうな大人のおとぎ話

時代背景30年ほど前の少々大人のアクションラブコメディ小説です。

暗殺者 − メシア – 5

 

吉良が下宿にやって来てから、明日で一週間が経とうとしている。
まだ下宿に吉良がいるということは、当然、夢が死んでいないということを意味していた。
この一週間、決して吉良は遊んでいたわけではない。
執拗に夢の行動を監視し、隙あらば仕事に取り掛かろうと常に構えていた。
が、しかしなのである。
夢という人間は隙だらけな割に、今までにないような殺りにくいターゲットだった。
相性が合わないというのか、合い過ぎるというのか、とにかくタイミングを外されっぱなしなのだ。
夢は、吉良の予測に反する行動ばかり取る。
突然、思い出したように進行方向を変えてみたり、不意に振り返って目が合ったり。
もしかすると、自分の正体を知っていて、わざと身をかわしているのではないだろうか。
近頃、吉良はそんなことまで考え始めていた。
ぶっちゃけた話、ただ単に、夢の行動には無駄が多い…それだけなのだが…。

昼過ぎ。
昼食の片づけも終り、夢は一人、居間で下宿の帳簿をつけていた。
開け放った縁側から柔らかい風が入って来て、少し早めに廊下に吊るした風鈴を揺らしている。
外の日差しが、庭の木々を鮮やかに照らし出す分、部屋の中は、実際より暗く静かに感じられる。
落ちついて細かい作業をするのに、ぴったりの午後だった。
夢はややこしい計算に頭を悩ませて、ひたすら数字と戦っている様子。
むろん、背後に音もなく忍びよる人の気配などには全く気づかない。
今がチャンスだと、吉良は思った。
自分と夢以外には誰もいない。
帳簿に集中している夢は、いくら何でもしばらくは動かないだろう。
吉良は長いジャケットの裾をよけて、腰の後ろに挟んだ銃に手をかけた。
青く澱んだ、しかし、鋭い眼を開く。
その時。
夢の手が止まった。
気づかれたか....。
それでも吉良はもう銃を退く気はなかった。
頭を撃ち抜けば、声を上げられる間もなく事は済む。
それで仕事は完了だ。
いつも通り後始末をして姿を消せばいい。
…しかし、またしても夢は、吉良の予気せぬ行動に出た。
前方を凝視したまま、身を強張らせ、体を後退させ始めたのだ。
畳にペタンと座った体勢のまま、じりじり後ろへ下がって来る。

吉良の側から見れば、夢は吉良に背を向けたまま、彼の方へ近づいて来たことになる。
逃げるものは追いたくなるが、急に近づかれると、つい身を退いてしまうのが、人間の反射機能というものではないか。
吉良はたじろいで、思わず腰の銃から手を放した。
更に夢の体が下がって来る。
そのままどんどん突き進んで行って、行き止まりにぶち当った。
「き…吉良さん…‼︎」

 

 

どうやら夢は、やっと吉良が立っていたことに気づいたらしい。
「た…助けてっ‼︎」
怯えた声を上げると同時に、夢は、吉良の背中に隠れるようにしがみついた。
驚いたのは吉良である。
自分以外の何を恐れると言うのだ…この女。
「クモ! でっかいクモが、そ…そこに!」
「クモ…?」
確かにクモがいた。
足を広げると、直径15センチはあろうかというクモが、帳簿を広げたテーブルの反対端の方に乗っかっている。
夢のいた場所から見ると、にらめっこ状態だった。
クモの苦手な人間なら、きっと心臓が止まりそうな思いがするに違いない。
しかし、夢にとってこのクモは、立派な命の恩人であろう。
「こりゃ、でかいな…。でも、この辺に毒グモはいねぇから安心しろ。放っときゃ、そのうちどっか行っちまうよ。」
「だめぇ〜〜‼︎ 絶対だめっ‼︎ 逃がしちゃだめっ‼︎ 家の中で行方不明にさせたら、また、いつ出てくるか。恐くって、安心して生活出来ないものっ‼︎ お願い!吉良さん!捕まえてっ‼︎ 捕まえて外に出してっ‼︎」
吉良は肩をすくめた。
そんなことをして何の得になると言うのだ。
それでも仕方なく、吉良は、テレビの横に立ててある雑誌を手に取って丸めた。
すると、夢が顔色を変えて叫ぶ。
「だめっ‼︎ 殺しちゃだめよ!」
「はぁ?」
「吉良さん 『クモの糸』の話、知らないんですか? 地獄に落ちても、クモが助けてくれるんです!」
隋分、都合の良い要訳である。
「お前なぁ…そんだけクモのこと毛嫌いしといて、よくそんな厚かましいこと言えるなぁ。」
「だって…。」
「お前、地獄に落ちる予定でもあんのかよ。」
「……。」
とにもかくにも夢は、台所からスーパーのビニール袋を持ち出して来て言った。
「早くその中に追い込んで下さい。」
そう言われても簡単にはいかない。
大きなクモともなると、足も速いし、ジャンプ力も違う。
思うような所には なかなか行ってくれない。
クモが移動するたびに、夢が叫鳴を上げて、吉良の上着を掴んで引っ張り回すので、余計に上手くいかなかった。
吉良は、ほとほとくたびれ果てた。
そのうちに軽快なフットワークのクモの方は、テレビの隙間に入り込もうとする。
「いや~‼︎ 逃げちゃう〜っ‼︎」
シュッ‼︎ 一瞬にしてクモの姿が消えた。
夢が信じられない面持ちで吉良を見る。
吉良は素早く、素手でクモをわし掴みにしてそれをビニール袋に突っ込んだのだ。
「き…吉良さ…ん…手…手…」
自分の手に触れたクモの感触を想像して、夢の全身に鳥肌が立つ。
「ひゃあ~っ‼︎ 吉良さん、人間じゃないっ‼︎」
「何なんだよ!お前の言う通りにしてやったっつうのに、何だ!その言いぐさっ‼︎」
ぶつぶつぼやきながら、ビニール袋を突き出す吉良。
「好きな所へ放してやれよ、ほい。」
「いやぁ~っ‼︎」
夢は、ビニール越しにも触れない程、クモが大の苦手なのだった。

二人は近くの公園へ続く道を歩いていた。
吉良が手に下げているのは、もちろんクモ入りのビニール袋だ。
庭に放すと戻ってくるかもしれないから、公園まで持って行ってほしい。
今にも泣き出しそうな夢の頼みを吉良はしぶしぶ引き受けた。
(仕事の邪魔しやがったクモを、何でわざわざ公園まで逃がしてやりに行かなきゃなんねぇんだっ!くそっ‼︎」
吉良の不満は最もだろう。

しかも、それを 無理矢理 頼んだ夢は、クモを手に持つ吉良を避けるように、必要以上に距離を開けて歩いている。
全く納得いかない話だった。
かたや夢は、少し離れた隣りで歩く男を横目に見ながら、しきりに考えごとをしていた。
さっき上着を引っ張った時、肌けて出た吉良の腕を見て驚いた。
いつものぼうっとした雰囲気の吉良からは想像もつかないような、筋肉の発達した腕をしていた。
肉体労働でもやっていたのだろうか…。
いや、そういう感じでもない。
力を目一杯使って出来上がった体ならきっと、もっと筋肉が盛り上がっている。
吉良の場合そうではなく、ボクサー系の無駄のない引き締まった作りをしているように見えた。
体脂肪率、低そう』夢の感想を素直に述べるとこうである。
それに、あのクモを捕まえた時。
素手で掴んだことにも面くらったが、もっと驚いたのは吉良の素早い動きだ。
あの速さなら、きっと飛んでるハエだって捕まえられる。
すごい瞬発力。
一体この男、何者なのだろう…。
(ボクサーだったけど、ぼうっとした性格が災いしてチャンピオンには手が届かず、それでも昔の夢が捨て切れずに放浪している。…そんなところかしら。)
夢は他人の人生を勝手に決めつけて、一人納得した。

公園の植え込みにクモを逃がしてやった後、夢は、吉良をベンチに残して何処かへ走って行った。
昼下がりの公園は、子どもの姿もなく、意外に静かなものだった。
小さな子どもは お昼寝タイム、小学生は まだ学校で、ポッカリ空いた公園の昼休みなのだろう。
明るい日差しに照らされて、公園のベンチで一人佇む。
吉良にとっては異和感だらけの環境で、落ち着かない。
未だ捕まったことはないものの、犯罪者には違いない吉良。
その吉良をこののどかな空気が、何となく後ろめたい気分にさせた。
夢を待つのを止めにして、先に退散するか…。
吉良が腰を浮かした時、やっと夢の姿が見えた。
「吉良さん!」
嬉しそうに両手にソフトクリームを持っている。
「これ、お礼です。」
夢は、ソフトクリームの1つを吉良に差し出しながら、自分もベンチに座った。
「でも本当は、私が食べたかったんですけどね。最近、望ったら偉そうに『男の食べもんじゃない』とか言い出しちゃって、つき合ってくれないんですよ。大の大人が一人でソフトクリーム食べるのって恥ずかしいでしょ? だから、ずっと我慢してたんです。良かったぁ…。ここのソフトクリーム美味しいんですよ。ケーキ屋さんの前で売ってるんですけどね。すっごく味が濃いって言うのか…」
とても楽しそうな夢のお喋りを、吉良が無情に止めた。
「で、俺にソフトクリーム買って来たのか? 望が『男の食べもんじゃない』って言って食わないもん、俺に食えってか?」
「…あ。」
夢の満面の笑顔が、見る見る萎んで行く。
「…でしたね。やっぱり…嫌いでしたか? …ソフトクリーム。」
「当り前だ。」
あっさりした返事。
夢はちょっとムッとした。
いくら嫌いだって、人がわざわざ買って来たものなのだから、少し無理してでも口をつけるのが礼儀ではないか。
そう考え始めると、益々 腹が立つ。
こんな男に、この美味しいソフトクリームを一口だって分けてやるものか。
夢はかなり意地になって、両手のソフトクリームを交互にパクつき始めた。
呆気に取られる吉良。
(2つ食う気か…こいつ。)
しかし…。
初夏の強い日差しが、夢の食べるスピードよりずっと速く、ソフトクリームを溶かしていく。
夢の手や口の周りはベタベタ状態。
まるで子どもの食べ汚しだ。
それでも頑なになってしまった意地は止められない。
吉良は「呆れ」を越えて、吹き引き出しそうだった。

つまらないことに意地を張って、懸命になる夢が可笑しくもあり、いじらしくも思えた。
ふと吉良の手が伸びて、夢の手首を掴んだ。
夢の動きが止まる。
そして、驚いた眼差しで隣りの吉良を見た。
吉良は黙って、掴んだ手首を自分の方に引き寄せ、食べかけのソフトクリームに口をつける。
「……!」
心臓が躍り出す。
夢は焦って手を引こうとした。
「き…吉良さん、クリーム嫌いなんでしょっ? ど…どうして…」
「味見だ。久しぶりに食うと美味いかもしれねぇだろ。」
平気で吉良は言う。
でも夢は、平静ではいられない。
「だ…だったら、自分で持って下さい!」
「持つ気しねーよ。こんなベタベタなもん。」
「そんな…」
どうしていいか分らなくなって、夢の目線が落ちる。
顔が熱って、全神経が掴まれたままの手首に集中していた。
(この人は何も思わないのだろうか…。)
吉良の態度は、ごく自然だった。
女の手を握ることも、食べかけのアイスクリームを食べることも、吉良にとっては別に気にとめるようなことではないのだ。
慣れた手つき、慣れた仕草。
吉良は、女性経験を豊富に積んだ大人なのだ。
それなのに自分だけ、こんなにギクシャクした気分でいる。
夢は自分が腹立たしくて、恥ずかしくて、居たたまれなかった。
「吉良さんて、見かけによらず、女慣れしてますね!」
夢が、ちょっと口を尖らせて言う。
「あぁ? 何で、そう思うんだ?」
「別に…。」
そんなこと説明出来ない。
更に問うこともなく、吉良は夢の手を放して、タバコに火をつけた。
夢の手には、まだアイスクリームのコーンが残されたままだ。
「吉良さんこれ…」
「そこまで食えねぇ。」
「もったいない!」
夢はつい望に言うような調子で言った。
「じゃ、お前にやるよ。」
「え?」
それは…困ってしまう…。
「もったいない」などと言ってしまったのだから捨てるわけにもいかない。
でも、だからって…。
「別に俺、病気 持ってねぇぞ。」
このまま黙っていると意識してると思われる。
…実際そうなのだが。
吉良のように気にしなければ、どうということもない。
そうなのだ。
夢は思い切ってコーンをかじった。

 

 

「間接キスだな。」
すかさず吉良が言う。
一瞬にして、夢の顔はすもも色に変った。 茹だこ色とも言うかもしれない。
そんな夢の反応を見て、吉良が大笑いする。
「やっぱり、さっきから、そんなこと気にしてたのか。精神年令幼稚園児だな、お前は。」
幼稚園児なら却って気にしないだろう…。
とにかく夢は、恥ずかしいやら、腹が立つやらで我を忘れて喚き散らした。
「バカにしないでっ‼︎ ただ私はっ!あなたの食べ残しっていうだけで汚くって、食べられないと思ったのよっ‼︎ こんなものいらないっ‼︎ お返しますっ‼︎」
ソフトクリームのコーンを吉良に押しつけて、夢は公園から走り去って行った。
遠ざかる背中を只、見つめる吉良。
間接キスか…。
そして冷やかにつぶやく。
「くだらねぇ…。」
吉良はベンチの脇にあるゴミ籠に、無雑作にコーンを投げ捨てた。
…戻るとするか。
歩き出そうとした時、吉良は足元を這い回るクモに気づいた。
さっきのクモのようだった。
感情のない目が、それを見降ろす。
「よっぽど死にてぇらしいな。」
吉良は事も無げにクモを踏みつぶそうとした。
「吉良さん『クモの糸』の話、知らないんですか?」
夢の声と、あの楽しそうな笑顔が、脳裏を過ぎる。
足が止まる。
自分の意志に反して、どうしても足を降ろすことが出来ない。
吉良は憎らしそうに顔を歪めると、クモの横にタバコを投げ落した。
そして、それをジリジリ思い切り踏み消す。
吉良が立ち去った後、命拾いしたクモの姿はもう何処にもなく、身代りとなって踏みにじられたタバコの残害だけが、僅かに跡を残していた。

 

暗殺者ーメシアー6 へ続く