めかかうな大人のおとぎ話

時代背景30年ほど前の少々大人のアクションラブコメディ小説です。

暗殺者 − メシア – 14

14


夢は夕食の片づけをしながら、頭の中を別世界に飛ばしていた。
朝から、ずっとこの調子…。
隙あらば吉良とのキスの余韻に浸ってしまう。
「吉良さん…。」
(…少なくとも私、嫌われてないよね…きっと。ううん、それどころか、もしかしたら吉良さんも私のこと…。)
そう思うと、幸せで何をしていても夢の中にいるようだった。
うっすら染まる頬、夢見がちな瞳、
今の夢は、まるで少女のようにキラキラ輝いていた。
「んじゃ母ちゃん、オレもう寝るよ。」
「え…あぁ。」
望の声で、ふと現実に引き戻される。
こんなことばかり考えてもいられない。
「玄関、戸締りしたか?」
いつもは門を閉めることさえしない望が珍しいことを言った。
「ううん。だって、まだ吉良さんも沖田さんも帰ってないから…。」
そう言いながら、夢は(沖田さんはもう戻って来ないかもしれないけど…)と思った。
あんな事があった後だ。きっと戻り辛いだろう。
沖田に対して、夢は怒りよりも悪気を感じていた。
(私さえしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに…。)
他人を責めるより、まず自分を責めてしまう。それが夢の考え方の癖なのだ。
望が言う。
「二人とも大人なんだし、帰って来ないかもしれないんだから、鍵は掛けといた方がいいって。不用心だぞ。」
「うん、そうね、そうする。だから、あんたは心配しないで早く寝なさい。」
「おやすみ。」
「おやすみ。 お腹だけはちゃんと布団掛けるんだよ。」
引き戸が閉じる。
望は、ここ最近で随分しっかりした。
吉良の言葉が効いているのかもしれない。
今夜は男手がないのが分っているから、自分がしっかりしなければならないと気負っている。 この下宿と母親を自分が守ろうというのだろう。
まだ、たった6才だというのに…。
夢は誇らしさ半分、何だか望が痛々しく思えてならなかった。
洗い物を片づけた後、夢は望に言われた通り玄関の鍵を閉めに行った。
しっかり鍵が閉っているのを確認して振り返る。
「あれ...?」

 

 

正面の階段の上に、黒い人影を見たような気がした。
「黒いコート…? 吉良さん…?」
しかし玄関には、夢と望の履き物以外は置かれていない。
気のせいか…夢はそう思って、台所へ入って行った。
「さぁ! 誰もいない間に、ゆっくりお風呂に入ろう!」
わざと声に出して言ってみる。
実は、軽く流した今のことが何となく気になっているのだ。
幽霊だったらどうしよう…そう言ったバカバカしいことを考えないように努めている。
考え始めると、一晩 黒い影に怯えなければならなくなってしまう。
…それだけは避けたい。
夢は部屋から下着を出して、さっさっと脱衣所に向った。
脱衣所には、ムッとした熱気が充満している。
先に望が風呂を使っているので、そのせいだろう。
夢は服を脱いだ。

ところが風呂場の戸を開けてみて驚く。
「何…? これ…!」
中が見えない程の湯気が、風呂場中に立ち込めていた。
きっと、火がついたままなのだ。
夢は慌てて、中に飛び込んだ。
浴槽の向こう側の点火しバーに手を伸ばして、
思わず身を引く。
…熱い!
浴槽の中の湯は煮えたぎっている。
その真上の湯気が、また想像以上に熱かった。
だからといって放っておくわけには絶対いかない。火事になってしまう。
夢は気合いを入れ直して、もう一度手を伸ばした。
手探りでレバーを捜す。
壁もそうとう熱くなっている。早くしなければ…。
夢の手がレバーのあるべき所に触れた。
確かにそこにある筈だった。
何しろ土台がそこにある。
が、レバーがない⁈
無理矢理引き抜いたように、その部分には穴が開いていた。
「どういうこと…?」
嫌な予感…。
夢は身の危険を感じて、風呂場から出ようとした。
その時、外側からドアが閉じた。
脱衣所の照明も消える。
真っ暗な闇と、襲しい程の熱気で息が詰まる。
夢は必死でドアをこじ開けようとした。
だが開かない。
開く筈がない。
外から誰かが、夢を閉じ込めようとしているのだ。
そんな簡単に開けてくれる筈はなかった。
ドアに何か打ち付けるような音が聞こえてきて、夢の全身から血の気がひく。
本格的に閉じ込めようとしているのだ…!
ドアが開いていても暑いこの風呂場を密閉されて、何時間も閉じ込められたら…確実に…死ぬ!
夢は滅茶苦茶にドアを叩いて、夢中で叫んだ。
「開けてっ‼︎ お願いっ‼︎ 助けて〜っ‼︎ 息が出来ないっ‼︎ このままじゃ死んじゃうよ〜っ‼︎」
無駄だ。
自分を殺そうとしている相手に、そんな命ごいは通じない。
風呂場の温度はどんどん上昇していく。
浴槽の湯がなくなったら、本当に火事になってしまう。
夢はハッとした。
(望…。)
火事になれば寝ている望も…。
「望い〜っ‼︎ 起きてっ‼︎ 望っ‼︎」
しかし、今、望が目を覚してここへ来ると、ドアの外の何者かと鉢合わせになる。
火事に巻き込まれるより、ずっと危険だ。
(駄目…!私が何とかしなくちゃ…。)

夢は頭の中のパニックを何とか押さえて、考え始めた。
風呂釜は外についていて、中からはもう火を止めることは出来ない。
だったら少しでも、火事になるまでの時間を引き伸ばすしかない。
…どうやって?
考えようとしても恐怖と圧迫感と息苦しさと、そして焦りが邪魔をする。
どんなに息を深くついても呼吸が整わない。
全身のおびただしい汗。
サウナに入ったって、ここまで我慢したことはなかった。
暑い…。とにかく暑い…。暑いを通り越して熱い!
考えないと…考えないと…。
朦朧とする意識の中で、夢の頭に ふと浴槽の蓋の存在が浮かんだ。
「そうだ! 蓋だ! 蓋をすれば、少しはお湯の蒸発を防げるわ!」
夢は湯気を掻き分けて、手探りで蓋を捜した。
だが、やはりない。
ここまで計画的に夢を閉じ込めた犯人だ。
そんな手落ちはあるまい。
もしやと思って調べた窓も、外から岩乗に塞がれていてビクともしなかった。
本当に密閉されている。
夢を蒸し焼きにするつもりなのだ。
「酷いよ…。私ブタまんじゃないのよ…。」
意識が遠くなる。
段々、恐怖も暑さも感じなくなって来た。
(そうよね…。どうせ死ぬんだ…。ジタバタしたってしょうがない…。でも…死ぬなら…もう一回…望と…吉良さんに…)
「……!」
やっとそこで、誰が自分を閉じ込めたのか…という当り前の疑問に突き当った。
夢の体が微かに震える。
…まさか⁈
(吉良さん.....? 嘘…)
否定したい。
でも、さっき夢は吉良らしい人影を見たばかりだ。
それに吉良が殺し屋なのかどうかという疑問も、まだ解消されてはいない。
吉良を信じる気持ちが、パニックに掻き消されていく。
(どうして…? 私、吉良さんになら殺されてもいいって言ったじゃない…。こんなやり方しなくても…。酷い…‼︎ 望まで巻き込むなんて…酷過ぎるよ…。)
「吉良さ…ん…」
気力が尽きた。
風呂場の床の熱さを感じたのを最後に、夢の意識は完全に途切れてしまった。

 

開け放たれた玄関に、吉良が飛び込んで来た。
下宿の中は静まり返っていて何の物音もしない。
「くそっ‼︎」
吉良は自分の勘が外れていることを祈りながら精一杯急いで、ここまで辿り着いた。
それなのに…勘は当り、そして戻るのは遅過ぎたのかもしれない…。
今まで、吉良は依頼人の所に居た。
ついに意を決して、この仕事の依頼料を返して来たのだ。
殺し屋のプライドをかけても『夢を殺したくない』と言う気持ちにはとうとう打ち勝てなかった。
何もかも沖田の言う通りだった。
吉良は仕方なく依頼人に頭を下げた。
しかし…。
依頼人の態度はあまりにもあっさりしていた。
「その仕事は、こちらからキャンセルさせてもらおうと思っていたところなんだ。だから、その金は君の好きに使ってくれればいい。キャンセル料ということでね。」
「別口に頼んでいるからもういいっていうわけか…?」
吉良が訊く。
「いやぁ、そんな失礼なマネはしないよ。少し方針を変えるつもりでね。それは、君の仕事の範疇ではないと判断したので断わろうと思ったわけさ。」
(方針を変える? どういう意味だ…。)
「そういうことだから、安心して君はあの下宿を出てくれたまえ。キャンセル料と言っても、今回の場合、お互いのことだし、むしろ、その金は君が神崎夢に関知しないという約束金だと思ってくれ。」
「…何だと? ふざけるな。俺が何処で何をしようと俺の勝手だ。 そんな約束はするつもりはない。」
依頼人は、しばらく間を置いて言った。
「なら好きにすればいい。ま、とにかく助かったよ。金を届けに出向いてくれて。」
話の矛盾を感じる。
金を受け取る気のなかった男が、何故そんなことを言う?
出向いた…つまり、吉良が下宿を開けたことに対して出た言葉か…!
この男のことだ。口で何と言っても、本当は何を考えているか分からない…!
吉良はその場を飛び出した。
今、吉良を突き動かしているのは、他の殺し屋に仕事を取られたくないなどという ちんけなプライドではない。
理由を失くして、始めて溢れ出した吉良の気持ちそのものだ。
夢を助けたい…! 守りたい…! そして失いたくない…‼︎
玄関から屋内に飛び込んだ吉良は、まず夢と望の部屋に入った。
眠っているならここに居る筈だからだ。
だが吉良の期待を裏切って布団は空だった。
「夢っ‼︎ 望っ‼︎」
下宿中を捜し回っても、二人の姿は見当たらない。
何処だ。…外に連れ出されたのか。
吉良は階段を降りて玄関に戻った。
外に出ようかと思ったその時、トイレと風呂場に続く廊下が煙っているのに気づく。
「ここかっ‼︎」
迷わず吉良は脱衣所を覗く。
脱衣用のカゴに夢の衣類。
夢はこの中にいる。
吉良は焦った。
風呂場のドアの隙間から、もうもうと吐き出される温気を見れば、中が今どういう状態か想像出来る。
急がなければ…!
ドアに打ち付けられた板を強引に引き剥がして、吉良はドアを開けた。
狭い浴室に詰め込まれた熱い蒸気が、一気に噴き出す。
思わず仰け反る程の暑さだ。
夢は風呂の床に、体を丸めるようにして倒れていた。

 

素早く外へ担ぎ出す。

廊下に一先ず横たえて、吉良は夢の体を見た。
幸い火傷にはなっていない。
のぼせて気を失っているだけだろう。
しかし、もう少しこのままの状態が続いていたら、間違いなく夢は死んでいた。
何というむごい手を使うのだ。
吉良は正体の見えない暗殺者に激しい怒りを覚えた。

 

暗殺者ーメシアー15 へ続く