めかかうな大人のおとぎ話

時代背景30年ほど前の少々大人のアクションラブコメディ小説です。

暗殺者 − メシア – 15

15


居間のソファーで横たわる夢の額に、吉良が冷えたタオルを乗せた。
そして深く息をつく。
風呂釜の火はすぐに外から消したが、浴槽は既に変形して使いものにならなくなっていた。
危い所だった。
本当に夢の体は蒸した後、焼かれる所だったのだ。
まさに血も涙もないやり方。
犬の時と同じだ。
子どもが一緒にいる所を調教した犬に襲わせた。
もし夢が望を庇う為にしゃがみ込んでいなければ、まっ先に喉を食い千切られていただろう。
もちろん望も一緒にだ。

卑劣な殺し屋。
その男に、たぶん望は拉致された。
何故だ…?
殺す気なら、前のようにここで一緒に殺ろうとした筈だ。
何故、敢えて望だけ連れ出した…?
それに夢のことにしても、何故もっと確実な方法で殺そうとしなかったのだろう。
依頼人と通じているならば、吉良がすぐに戻ってくることは分っていた筈…。
それなのに何故あんな手間も時間も掛かる方法を選んだのだ。
本気で殺す気がなかった。 そうなのか…?
依頼人が方針を変えると言っていたのは本当だったのだろうか…?
一体、何が目的なのだ。
「う…ん…」
夢が目を覚した。
虚ろに目を開き、ぼんやり辺りを見回している。
その目が吉良を捉えた途端、夢の顔に恐怖が広がった。
「いや…いや…! 近寄らないで…!」
「夢…」
落ち着つかせようと伸ばした吉良の手を、夢が払いのける。
そして、シーツを掴んで、じりじりソファーの端の方まで逃げる。
「触らないで…」
夢の目は恐怖と不信感で一杯だった。
「あなたなんでしょう⁈ …どうして…こんな…酷いこと…。私を恐がらせるのが…そんなに楽しいのっ⁈ 殺すならちゃんと殺しなさいよっ‼︎ もうこんな中途半端なことして楽しむのは止めてっ‼︎ …気持ち…おもちゃにしないでよっ! 私…おかしくなっちゃうよ…わけ分かんないよ…」
体を震わせて、夢が泣く。
吉良は何を言えばいいのか、分らなかった。
夢がこんな目で吉良を見たのは初めてだ。
銃を見られた時も、写真を見つけられた時も、夢はこんな目で吉良を見たりはしなかった。
その夢に向けられる敵意が、さすがに吉良を動揺させた。
「…望…望は?」
突然、夢は瞳を急がしく揺らして言った。
思考回路が急に望に向けて動き出したらしい。
「望よ! 望をどうしたの?」
「…どこかへ連れてかれちまったらしい…。」
吉良はそのままを答えた。
他に言いようがない。
「嘘っ‼︎ 白々しいこと言わないでっ‼︎ あなた知ってるんでしょ? あなたが連れ出したんじゃないの? 帰してっ‼︎ 望を帰してよっ‼︎ あの子には関係ないじゃないっ‼︎」
夢の激しい叫びが、吉良の胸にまともにぶつかってくる。
吉良は何も答えなかった。
たとえ望を攫ったのが、夢を殺そうとしたのが自分でなくても、それをした男と自分は同類なのだ。
自分が夢を殺す為にここに来たという事実は消せない。
弁解などしようがない。疑われても仕方がない。今はせめて夢の気持ちの捌け口になろう。

吉良はそう思っていた。
プルルルルルル… 電話が鳴る。
一瞬、夢は吉良を見て、そして慌てて電話を取りに行った。
「はい。神ざ…いえ、富士見荘です。」
「夢か…?」
聞き覚えのある声が受話器から流れる。
夢は自分の耳を疑った。
「久しぶりだね…。」
(この声…まさか…。)
「早川さん…?」
しっかり言ったつもりの声が震えている。
受話器を持つ手の感覚がなくなる。
背後の吉良が、夢の声に鋭く反応した。
(早川…!) 依頼人の名前だった。
別に驚くことではないのだが、吉良は、夢と早川が直接の知り合いだということに異和感を覚えた。
全くの他人の命を大金を払って狙うような変ったヤツはまず居ないのだから、知り合いであることの方が自然だ。
でも何か、吉良の中で二人は繋がらない。
あまりにも二人の空気が違うせいだろうか…。
「あなたと話す気分じゃありません。それに…もう話すことなんて何もないじゃないですか。二度と電話しないで下さい。」
夢は無理に作ったような冷たい応答をした。
顔だけ見ていると、夢の方が冷たくされているのかと思うくらい辛そうだった。
電話の向こうの早川が言う。
「電話を切っていいのかな? たぶん君の捜し物は僕の所に居るよ。」

「…え?」
意味がよく分らない。
分りたくないから頭が働かないのかもしれない。
「君の息子は僕の所にいる。君が迎えに来るのを待ってるよ。」
「何処っ? 何処に居るのっ⁈」
早川は事務的に場所を説明した。
そして言う。
「言っておくが…。君一人で来るんだよ。一緒にいる男にもう用はないからね。」
「…吉良さんのこと?」
凍りつくような胸の痛みを押さえて夢が訊く。
だが、早川はただ低く笑っただけだった。
それを最後に電話は切れた。
「…ちょっと…待っ…」
諦めて、夢も受話器を置く。
(…どうして…早川さんが…)
頭が混乱して また目眩がする。
夢は額を押さえて、電話台に寄りかかった。
「早川か?」
顔を上げると吉良が目の前に立っている。
慌てて夢は身を退いた。
「近寄らないでって言ってるでしょ!」
それでも構わず、吉良は夢の肩を掴んでくり返し訊く。
「早川からだったのか? 望は早川の所に居るんだな?」
夢は、吉良の体を突き放そうと足掻いたが、吉良はびくともしない。
成す術をなくして、夢は攻撃的な目を上げた。

「知ってたんじゃないの? 望を連れ出したのはあなたでしょ? あなたが早川さんを知ってるってことは、つまり、あなた達が仲間だってことよね。だったら何もかも分かってる筈でしょ? ねぇ教えてよっ‼︎ 望をさらってまで、どうしてあの人は私に会いたがるのっ? あなたの目的は私を殺すことじゃなかったのっ? それを頼んだのは…あの人…なの…? お願いだから…分るように説明して…ねぇ…教えてよ…。」

 

 

鋭い瞳に涙が浮かぶ。
じれったくて、悔しくて、悲しくて、涙が止まらない。
そして…気がつくと、夢は吉良の胸に顔を埋めていた。
何故そんな行動を取ってしまったのかは、よく分らない。
只、拒絶する反面、どうしようもなく吉良を求めてしまう気持ちが止まらなかった。
「私は…一体…何を信じればいい…? あなたは私の敵? それとも味方なの?」
吉良の腕の中で夢が訊く。
決して答えを求める為に、言った言葉ではなかった。
答えなど、本当はいらなかった。
聞いてしまえば終りが来る…そんな気がしたから…。
しかし吉良は無情に答えた。
「俺は早川にお前を殺すよう依頼されて来た殺し屋だ。」
分っていた。
だからこそ夢は吉良を疑ったのだ。
それなのに、何だろう、この脱力感…。
涙を流すことさえ忘れてしまうくらいの無力感…。
…でも、それでも。
夢は顔を上げずに静かに言った。
「じゃあ…私をお風呂場に閉じ込めたのも…あなた?」
「ああ。」
「嘘つき!」
思い切り夢は、吉良の体を抱きしめた。
(この人は殺し屋かもしれない…。でも一度も本気で私を殺そうとしたことなんかない! 敵じゃない! 絶対そんなことない!)
根拠は何もなかった。
でも夢は今それを実感した。
どんな証拠よりも、はっきりしたものを胸に感じ取ることが出来た。
「吉良さん…。ごめんね。私、どうかしてた。あなたを疑うなんて…。」
「…お前、人の話聞いてんのか? だから俺は…」
夢が遮る。
「あなたはいい人。私が言ったんだよね。それなのに私が忘れちゃうなんておかしい。私はあなたが好き。あなたが何て言ったって、あなたを信じる。」
夢は明るい表情を浮かべて顔を上げてた。
そして、きっぱり言う。
「私、早川さんに会ってくる。会って、どうして私を殺したいのか…理由を訊いてくる。何か誤解されてるのかもしれないし…。もしそうなら、ちゃんと話せば分ってくれるかもしれない。あの人もきっと悪い人じゃないと思うの。…そう思いたいの。だって…あの人は…望の父親だから…。」

「何…?」
まさに青天の霹靂だった。
何ということだ…!
「ヤツは…早川はそのことを知ってるのか?」
「いいえ…。たぶん知らないと思う…。妊娠に気づいたのは…彼と別れて家を出て、ここにお世話になってからだから…。あれっきり彼とは会ってないし…。只、望の年齢を考えれば、気づいてもおかしくないよね…。」
何か考えている様子で吉良は黙っていた。
夢はもう一度、吉良にしっかり抱きついて、体を離すと言った。
「じゃあ、行って来る。一人で来るように言われたから、私一人で行くね。望だけは絶対、無事に取り戻さなくちゃ。私…母親なんだもん…。」
(望だけは、か。)
夢が居間から出ようとした。
それをすかさず吉良が止める。
「ちょっと待て。」
「止めないで。私が行かないと、望が…」
少々芝居がかった夢に、トボけた顔で吉良が言う。
「お前がいいなら、しいて止めねぇけど、お前…その恰好で行くつもりか?」
「へっ?」
夢はやっとその時、自分がシーツしか身に付けていないことに気づいた。
「バカッ‼︎」
振り向きざま、意表をつく衝撃が夢の鳩尾(みぞおち)に食い込む。
あっけなく崩れ落ちる夢。
その体を吉良が静かに腕の中へおさめた。
「悪りーな。でも、あいつはお前が思ってるような男じゃねぇよ。望だけは…なんて話は、たぶんヤツには通用しない。…お前はあいつに会わない方がいい。」
吉良は夢を抱き上げてソファーに運んだ。
「お前の代りは俺がやる。…だから、お前はゆっくり寝てろ…。」
そう呟いた後、眠る夢の唇にそっとキスした。

 

 

電話台の上のメモを無雑作にちぎり取り、吉良は足早に下宿を出た。
その姿を下宿の脇にひそむ人影が見ていたことに、吉良は全く気付かなかった。

 

暗殺者ーメシアー16 へ続く