めかかうな大人のおとぎ話

時代背景30年ほど前の少々大人のアクションラブコメディ小説です。

暗殺者 − メシア – 9

 

庭用の帯が、土の地面にひらがなを描き出している。
箒は独りでには動かない。描いているのは夢である。
夢は庭の掃除をしているようなふりをしながら、さっきのことについて考えていた。
どうして掃除するふりをしているのかと言うと、外にいる理由が欲しいから。
何故、外に居たいのかと言えば、もちろん吉良と顔を合わせたくないからだ。
吉良に対する恐怖心は不思議と消えている。
只、会った時にどんな態度を取ればいいのかが分からない。
だから会いたくなかった。
(どうして殺されると思ったのかな…?)
夢は考える。
(ピストルを見た後だったからかな…。)
それはあっただろう。
でも本当にあれは本物だったのか?
その断定は出来ない。
何しろ夢は本物のピストルを知らないのだ。
本物かどうかも分らないピストルを見て、夢は吉良に殺されると思ってしまった。
でもよく考えると、実際、吉良は夢に何もしていない。
吉良がいつもと違うように見えたのも、夢の思い込みだったのかもしれない。
(そうよね…普通の人がピストルなんて持ってるわけないじゃないのよね。映画やマンガじゃあるまいし、あの人ヤクザには見えないし…。殺し屋だのギャングだのが、その辺にいるわけないんだから…。きっと、あれモデルガンだったのよ。あの人、オタクっぽいとこがあるもんね。それを私が勝手に触ったから、あんなに怒ったんだ。きっとそうよ。)
夢は楽観的な考えを都合良く並べて、勝手に納得した。
(後で会ったら、さっさと謝っちゃおう。大人なんだから、それで済ませてくれるよね。そうだ。そうしよ。)
そう思うと、夢の気持ちは嘘のように軽くなった。
殺し屋にとっては本当に手間のかからない「理想的なターゲット」だと言えよう。

「ただいま!」
望が帰って来た。
今日は水曜日なので、いつもよりは帰りが早いのだが…。
「げっ! もうそんな時間なのっ? お昼作らなくちゃっ‼︎」
「母ちゃん、また忘れてたのか? しまいには下宿人から苦情が出るぞ!」
「ほんとだよね…参った !」
二人は庭の飛び石をゆっくり渡って、玄間へ向った。
飛び石の焼けた感じが、草履を通してでも伝わってくる。
日差しの一番きつい時間。
うんざりする程のセミの声が、ムッとする空気一杯に広がっている。
その音に紛れて、鈍い獣の息使いが聞こえた。
「望? 何か言った?」
夢が足を止める。
「ううん、別に。」
更に低い唸り声が響く。
二人は同時に振り返った。
「かっ…母ちゃん…!」
望が閉め忘れたらしい門を通って、二頭の犬が庭に侵入して来ていた。
犬と言っても、その辺でよく見かけるマルチーズやヨークシャ・テリアのような室内犬とはわけが違う。
歯を向き出しにして近づいて来るその姿は、動物ではなく猛獣だ。

 

 

しかも この犬達、様子がおかしい。
最初から夢達を狙っているように一直線に向って来る。
顎から粘ったよだれを引きずり、低い体勢に構え、いつ襲いかかって来ても不思議ではない状態なのだ。
望は声にならない声を上げて、夢にしがみついた。
それを体で庇いながら、夢が後ずさる。
「平気よ。 何もしなければ何もして来ないわ…きっと。」
しかし、そんな状況でないのは一目瞭然だった。
「このまま、ゆっくり家の中へ入ろう…。ゆっくり、ゆっくりよ…」
犬に刺激を与えないように、慎重に後ろへ歩みを進める。
犬もじりじり迫ってくる。
すぐ後ろにある筈の玄関が、宇宙の彼方にでもあるような気がした。
もう少し…。 もう少し…。 あと何歩もない筈。もう少し…。
「あっ…!」
望が飛び石に足を取られて、後ろ向きに転ぶ。
それにつられて、夢も体のバランスを崩してしまった。
グワワワゥ…‼︎
猛獣が襲いかかって来る。
夢は、夢中で望を抱え込んでうずくまった。

夢の背中に、もの凄い痛みが走る。
服が軋んで、そのまま裂けた。
肩を食わえ込んだ犬の、荒い息と唸りが耳を覆う。
尖った牙が間接に喰い込んできて、肩がもげてしまいそうだった。
このままでは望も危い。
望だけ…望だけは助けなければ…!
「望…! いい? 犬が母ちゃんに気を取られている間に、あんたは玄関に逃げるの。分った? 入って戸を閉めるのよ、いいわね?」
恐怖の虜になっている望に夢の声は届かない。
身を強張らせて、ただ俯いている。
「望っ‼︎ 何してるのっ‼︎ しっかりしなさいっ‼︎」
夢の怒鳴り声で、望はビクッと我に返った。
「玄関へ逃げ込んで戸を閉めるっ‼︎ 分かったねっ⁈」
更に夢の一喝。
「う…うん。」
返事を聞き終らないうちに、夢は もう一頭の犬の鼻先に、自分の右腕を突き出した。
犬が腕に食らいつく。
鋭い牙が肌に深く沈んだ。
犬は更に腕をもぎ取ろうとでもするように、頭を振り回して後ずさる。
「きゃっ…うぅ…‼︎」
あまりの痛みに夢は声を上げた。
苦痛で顔が歪む。
だがこれで犬を二頭とも、自分に引きつけておくことが出来る。
夢は、もう一方の手で望を強く押し出した。
「早く‼︎ 早く行ってっ‼︎」
這うように望が玄関に向う。
しかし、夢の背中に覆い被さっていた犬が、望に気づいてしまった。
ピクリと耳を立てる。
そして次の瞬間、犬は望の体の上へ大きくジャンプした。
「望ぃっ‼︎」
パシュウ! 空気を切るような気配が横切り、犬の体はあっけなく弾け飛んだ。
獰猛な獣の断末魔の声。
意外な程、かん高く、か細い。
残るもう一頭も同じように、ほとんど同時に息絶えていた。
何が起ったというのだろう…何となく予感がして、夢は吉良の部屋の窓を見た。

 

 

吉良が銃を退く。
一瞬だったが、確かに夢はそれを見た。
(あのピストルやっぱり本物だったんだ…。)
薄れゆく意識の中で、夢は ぼんやり そう思っていた。

額に銃口が突きつけられた。
夢は金縛りにあったように動けない。
体が重くて熱い。まるで燃えているようだ。
逃げることさえ出来ないまま、銃は額を撃ち抜いた。
死んだ。…夢は死んだ。
…筈なのに何の変化もない。
額には痛みすら感じない。
只、体中が焼けるように熱く重かった。
キャィーン! 背後で甲高い犬の声。
振り返ると、さっきの犬が倒れていた。
夢の体を擦り抜けた弾丸が犬に命中したらしい。
こんなことも、たまにはあるのだろうか…。
それとも最初から助けるつもりで…?
じゃあ誰が一体…?
…そうか、吉良さん。
夢はゆっくり顔を元に戻した。
吉良さん....?
しかし、そこに吉良の姿はなかった。
吉良さん....?
何処へ行ってしまったんだろう…。
まだ、お礼も言ってないのに…。
「吉良…さん…。」
「あぁ?」
ハッと夢は目覚めた。
吉良が顔を覗き込んでいる。
「何でいるの…?」
「はぁ? 人の勝手だろ。…んなこと。」
そうか…夢だったのか…。
そりゃあそうだ。
額を撃ち抜かれて、呑気に考えごとなど出来る人間はまず居ない。
「母ちゃん!」
望が涙を溜めて夢を見つめている。
やっと全てを思い出した。
自分は犬に襲われて気を失ったのだ。
「望っ‼︎  怪我は? 何処も痛くないっ? 痛っ…‼︎」
咄嗟に体を起こそうとした夢は激痛で潰れた。
居間のソファーに横たえられたまま、起き上がるのは不可能のようだった。
体の焼けるような痛みは現実のものだったらしい…。
「動けるわけねぇだろ。危うく犬の昼メシんなるとこだったんだぞ。」
そう、そして、それを吉良が助けてくれた。
「ありがとう、吉良さん。…助けてくれて。」
吉良は夢を見た。
夢の瞳には不思議な色が浮かんでいる。
礼を言うということは、さっき吉良が銃を使ったことに気づいているのだ。
それなのにこの目は何だろう。
銃に対する恐れも、吉良に対する不信感も、何一つ感じられない。

只、穏やかな暖かい眼差しを吉良に向けている。
(何を考えてやがる…こいつ。)
吉良は、感謝の言葉に対する答えが見つけられず、只、目を逸らした。
夢が言う。
「最近のモデルガン…エアガンって言うのかな? 凄いパワーですよね。あんな凶暴な犬をやっつけちゃうんだもん。びっくりしちゃいました。」
「モデルガン…?」
少し力がないものの、夢の笑顔に曇りはない。
(本気で言ってるのか…?)
「…ああ。そうだな。」
吉良は答えた。
そう言うしかなかった。
「あの犬、おっちゃんがやっつけたのかっ? すっげぇーや‼︎」
何も知らない望が無邪気に感心する。
「今度そのモデルガン、オレにも見せてよっ! 一回撃たせてくれよっ!」
「駄目よっ‼︎」
ハッとするくらい厳しい口調で、夢は望を叱りつけた。
その後、慌てて叱ったことを誤魔化そうとする。
「あ…あれは吉良さんの大切なものだから、触って、もし壊しでもしたら大変でしょ? だから駄目。絶対触っちゃ駄目よ。」
「分ったよ…。」
夢の真剣さが伝わったのか、望は大人しく引き下がった。
やはり夢は、本気であの銃をモデルガンだと思っているわけではない。
そういうことにしておいただけなのだ。
吉良は益々分らなくなった。
何故そんな必要がある?
助けてもらった礼のつもりか…?
いや、しかし、さっきの吉良の部屋でのこともある。
身の危剣を感じない筈はない。
夢には望もいるのだ。
恩返しするにしてもリスクが大き過ぎる。
何故だ…。
こいつは底抜けのバカなのか…?
それとも…。
吉良は考えるのを止めておいた。
それ以上 考えると、更に仕事に打ち込む気を削がれそうな気がしたからだ。
だが、それは吉良の悪あがきでしかないのかもしれない。
既に吉良は自分で気づいている。
必死で誤魔化そうとしても誤魔化し切れない自分の思いに。
自分は夢を殺せない…。
段々 胸の奥で はっきりとした形になってくる気持ち。
見られてしまう危剣を犯してまで銃を撃った あの瞬間、夢を助けたあの時に、吉良はそれに気づいてしまった。
気づいていて、尚、認めることは許されない。

殺し屋「吉良耕介」が最後の薄皮一枚の意地をかけて許そうとはしないのだ。
「あ…‼︎‼︎」
突然、夢が突拍子もない声を上げた。
何事かと思って目を向けると、夢はわなわなと体を震わせている。
「どうした?」
「こ…この包帯…誰が?」
「俺だけど…。何だ? 苦しいのか?」
「ち…違…違…う…けど…。」
包帯は上半身、全域に巻かれていた。
背中の傷を履う為には仕方のない処置だろう。
それはそうだが、包帯の下に衣類は着けられないわけで、ということは…つまり…。
「み…見たんですか?」
「え?」
夢は熱でもあるのかと思う程、頬を紅潮させている。
なる程そういうことか…。納得した後、吉良は呆れた。
「お前…。 自分の傷がどんだけ酷ぇか分ってんのか? そんな余裕あるわけないだろ。」
そこで止めとけば良いものを、敢えてつけ足す吉良。
「大体お前の体、前か後ろかも よく分かんねぇのに何を見るっつうんだ。」
あんまりである。
「な…何よ…。何よ、それ…。どーして そんなに無神経なことしか言えないわけ? 最っ低っ‼︎  だから良い年してあなたは独りもんなのよっ‼︎  そんなことじゃ恋人の一人だって出来やしないんだからっ‼︎」

「あいにく俺は女には不自由してねぇんだよ。お前みたいなガキ臭ぇんじゃなくて、もっと色っぽい、抱き心地のいい女、腐るほど知ってる。人のことより自分の心配するんだな。」
「何ですってぇ‼︎」
夢は思わず犬に噛まれた右腕を振り上げた。激痛が走る。
「きゃっ‼︎」
そして、腕を庇った反動でソファーから転げ落ちた。
「ぎゃあっ‼︎」
居間の床は、皮張りのソファーには不釣り合いな畳敷きだった。
そこで背中を強打したのだから堪らない。
夢は痛みにもがき苦しんだ。
「母ちゃん!」
望が駆け寄る。
その横にしゃがんで、吉良はしゃあしゃあと言った。
「そんな体で暴れるなんて、お前根性あるなぁ〜」

 

暗殺者ーメシアー10 へ続く